軍曹との結婚契機/友人らとおけいの墓参も
「渡米したときは日系人から『戦争花嫁』などと言われ、冷たい目で見られた。それで日系人のグループからは遠ざかってしまった。幸いにも英語が話せて、米国人の友達もいたので苦労はしなかった」。半世紀の米国生活を語るのは、福島市出身でカリフォルニア州サクラメント在住の英子(ひでこ)・ジャクニック(旧姓斎藤)。
1929(昭和4)年、保原町生まれ。第一高等女学校(現橘高)を卒業後、福島女子医専(現福島医大)にいったん入るが、「医者は合わない」と菅野慶助、八千代により設立・運営された福島高等洋裁学校(現福島学院大)に入学、洋裁を学んだ。
これが縁で戦後、福島に駐留した米兵の妻から、洋服の縫製を頼まれるようになった。おじが川俣女学校の英語教師だったことや、市内にあった英文タイプの学校に通っていたことなどから、英語ができた。兵士らから「仙台に行けば英語を使った仕事がもっとできる」とアドバイスを受け、50年ごろ、仙台の第16分団司令部で働くようになった。
ここで米陸軍から派遣された軍曹ウィリアム・ジャクニックと出会い、結婚を決めた。当時、米兵と結婚する日本人女性に対しては厳しい身元調査が行われ、英子も4年半ぐらい調べられた。55年9月にやっと許可が出て、米国大使館から結婚証明書が発行された。26歳だった。57年5月、ウィリアムの転勤に伴いワシントン州に渡り、同11月末にカリフォルニア州サクラメントに移った。
60年ごろ現地の日系人を中心に、コロマ地区の小高い丘に残る日本人初の北米農業移民団若松コロニーや、その一員だった女性おけいの墓が大きな話題になった。夫ウィリアムの友人がサクラメントの副市長をしたエドガー・セイヤーで、エドガーの妻ファンは若松コロニーの土地売買契約書を発見。エドガーの友人に、おけいの墓保存運動をした日系人の弁護士ヘンリー・タケタがおり、その妻サリーはコロニー一行の国勢調査票を発見した。調査に取り組む友人同士は時折、一緒に墓参もしたという。
渡米以来、夫婦2人の穏やかな生活が続いていたが、98年に夫ウィリアムが死去。英子は現在、地元のコミュニティ・カレッジに通い、さまざまなことを学んでいる。「日本は米国の良いところだけでなく悪いところもまねをしているように感じる。礼儀正しさなど、失ってほしくない日本の良いところはたくさんある」。米国で暮らす日々を重ねても、母国への思いはやまない。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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