社会的活動に没頭/権利回復や県人会の支援
戦前、北カリフォルニアのドスパロスで順調に大規模米作農業を経営していた小川町(現いわき市小川)出身の国府田敬三郎は、日米開戦とともに、信頼していた米国人の友人や顧問弁護士に資産管理を依頼して、コロラド州の強制収容所に入らなければならなかった。60歳だった。
戦後、強制収容所から自分の農場に戻ると、米国人の友人らが共謀して、土地や精米工場を無断で売却してしまっていた。戦前に苦労して手に入れた資産を失ったことと友人の裏切りを知り、国府田は落ち込んだ。しかし、悔しさを振り切るように、引き続き大規模農場経営に力を入れるとともに、戦後は一貫して日本人や日系人の権利回復と帰化運動に残りの人生を費やした。
国府田はおいの英二(いわき市在住)に対して「少しでも米国の日系人のために尽くしたい」と常々語っていたという。戦前は自らの事業を成功させるために専心し成功を収めた国府田は、戦中の強制収容を経て戦後は社会的な活動に没頭した。
国府田は東京五輪観戦やいわきへの帰郷などのため一時帰国していた1964(昭和39)年11月、滞在先の都内のホテルで倒れ、12月16日に死去した。享年82歳。2日後の18日に国際農友会により都内で、23日には米サンフランシスコでそれぞれ告別式が行われ、多くの著名人や友人らが別れを惜しんだ。
帰国当時、国府田は半生記を出版しようと考えており、河村幽川(本名・政平)が編集した原稿を英二に託していた。
河村は、新聞記者竹田雪城がおけいの墓の存在を報じた後、作家の木村毅とともに若松コロニーについて調査した研究者の1人としても知られる。
国府田の急死に伴い、この原稿を中心として「国府田敬三郎伝」を発行することとなり、英二は当時の首相佐藤栄作、知事木村守江、日本軽金属相談役草野義一、サンフランシスコの日米時事新聞社長浅野七之助、郷里の小川町長若松晴司らに原稿を依頼。年表や写真も入れて発刊した。
国府田は、南カリフォルニア福島県人会(南加県人会)の役員を務めていたことから、遺言書に生前、「毎年、ピクニックの際には県人会に赤飯用のもち米を寄贈するように」との文言を入れていた。
同会顧問の小山信吉は「子孫の方々が遺言を忠実に守り、現在もピクニックの季節に、南加県人会にもち米を届けてくれる」と感慨深げに語る。亡くなってもなお、国府田の県人会への思いは生き続けている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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