難民救済法で渡米/イチゴ畑や総領事館で勤務
1953(昭和28)年、米国で「難民救済法」が成立し、正式に難民受け入れが決まった。同法によりカリフォルニア州に渡った県人の1人が、川部村(現いわき市川部町)出身の芳賀三男。
56年4月から中学校教師に内定していたが、同じ時期に渡米も決まり迷った末、同年3月に渡米した。「クラーク博士の『少年よ大志を抱け』に刺激を受けた」という。「日本では国際農友会が送り出してくれ、米国では国府田敬三郎様が受け入れ農場を探してくれた」
本県の10人、京都の1人計11人が横浜港から客船ウイルソン号でカリフォルニアに到着。「早朝、サンフランシスコの金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)を見た時は『これでアメリカに到着できた』と感激した」
本県の10人は北カリフォルニアの農場に配置された。芳賀ら3人は桑折出身者が経営するイチゴ栽培の「宍戸農場」で働くことになった。
後に南カリフォルニア福島県人会長となる渡辺孝と斎藤彰ら5人は「並松農場」のセロリ畑に、残る3人は別のイチゴ農場に決まった。
広大なイチゴ畑での作業は摘み取りが中心。1日中立ったまま両手でイチゴを摘みながら畦(あぜ)を進み、箱が満杯になると車に積む。
広大な農場での作業は大変で、家に帰る時間が待ち遠しかったという。
56年は、イチゴには禁物の雨が多く降って不作となったため、農場主の宍戸から「自由にしていい」と言われた。芳賀は父方のいとこが住んでいたロサンゼルスに移り、ガーデナー(造園師)の仕事を手伝った。労働時間は1日8−10時間、7ドルぐらいだった。
60年に市民権を取得、一時米陸軍に徴兵されたが名誉除隊となり、再びガーデナーとしてロサンゼルスで働いた。
80年に在ロサンゼルス日本総領事館で総領事の運転手となり、9代の総領事に仕え、97年に定年退職した。「95年に天皇、皇后両陛下が訪米され帰途、ロサンゼルスにお立ち寄りになった際、職員の永年勤続者3人の1人としてお言葉をいただいた」
米国で暮らす日系人にとって気掛かりなのは、日本の親せきと自分の老後のこと。いわきの実家で暮らす長兄がアルツハイマーとなり、芳賀は97年から5年間、日本に一時帰国して介護し、みとっている。芳賀は激動の半生を振り返りながら、今後は「いずれ日本に帰り、ボランティアの仕事などをしながら、故郷で余生を送りたい」と考えている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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