異国で切り開く人生/26歳で独立、市民権を得る
米カリフォルニア州オレンジ郡の閑静な自宅で妻俊子と暮らす桑折町出身の南カリフォルニア県人会(南加県人会)元会長で現顧問の斎藤彰は、米国の「難民救済法」で渡米した。同法は、戦災や風水害などの被害に遭って母国で生活が困窮したり、政治的な問題から米国に移った外国人を「難民」と認定し、永住権(グリーン・カード)を与えて米国で農業などに従事することを認めた。日本から渡米した人々は「難民」というより、ほとんどが農業移民で、カリフォルニア州の日系人のセロリ畑やイチゴ畑で働いた。
斎藤が渡米したのは1956(昭和31)年、20歳の時だった。実家が風水害の被害に遭ったわけではなかったが、農家の三男で当時は土地も仕事もなく、米国で人生を切り開きたいと考えた。渡米したいと桑折町に難民申請をしたが同町は却下。ところが、既に南米に移民した知人から「隣町の国見町なら何とかしてくれるかもしれない」とアドバイスを受けた。同町は申請を受理し、渡米が現実のことになった。斎藤のように、他地域から同町に申請した人はほかにもいて、同法で移民した本県人は、同町の支援を受けた人が最も多かったという。
知事から激励金3000円を受け56年3月、横浜港からカリフォルニア州に渡った。現地では、日本人の「並松農場」のセロリ畑を手伝った。当時の賃金は1時間90セント。当時1ドル360円で、日本では昭和20年代に失業者に対して職安から支給される日給が「240円(ニコヨン)」、昭和30年代は大卒初任給が約1万4000千円。米国で5日働けば、日本の大卒の1カ月分の初任給分が稼げた。
58年8月、斎藤は信夫郡平田村(現福島市)出身の渡辺孝(前南加県人会長)とロサンゼルスに移り、伊達町(現伊達市)出身の芳賀功のもとで働いた。59年8月にガーデナーとして独立、26歳で米国の市民権を得て帰化した。
62年、27歳の時、県人会主催で一時帰国によるお見合いツアーが行われることになり、斎藤は参加を決めた。ところがその時、本県出身で南米に移住していた友人が、妊娠中の妻と子ども2人を連れて斎藤のもとに身を寄せた。一家はロサンゼルスまでの切符しか持っておらず、「日本に帰る金がない。ロサンゼルスで働いてから帰る」という。一家を見捨てるわけにもいかず面倒を見ていたが、友人は盲腸になり、妻も妊娠9カ月で、船では帰国できなくなった。斎藤は自分の貯金を一家の飛行機代に充てた。「平凡な家庭を築きたい」というささやかな願いも吹き飛んでしまった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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