日系人名誉回復へ/政府の謝罪と補償に尽力
第2次世界大戦中に「敵性外国人」とされ、米国内の強制収容所に入れられた日系米国人への補償問題が進展したのは、1988(昭和63)年、終戦から43年後のことだった。米大統領レーガンは「市民の自由法(通称・日系米国人補償法)」に署名、米国政府は謝罪文を出した。90年には強制収容所で暮らした約8万人の日系人に1人2万ドルの補償金が渡され、晴れて公式に日系人が名誉を回復した。
この時、大統領署名の実現と謝罪、補償に尽力した日系人の代表の1人が、親が喜多方市出身で73年から80年までカリフォルニア州選出下院議員を務めた日系三世ポール・坂内(坂内武雄ポール)。
ポールは既に公職から退き、ロサンゼルス郊外で静かな生活を送る。「私は日系三世として、日本人の祖先を誇りに思っている」と語り、今月28日にロサンゼルスで開かれる南カリフォルニア福島県人会(南加県人会)の100周年記念式典の準備にも参加している。坂内も苦労を重ねながら、米国の生活を築き上げた日系人だ。
坂内家で最初に米国に渡ったのはポールの祖父に当たる坂内作一。作一は耶麻郡岩月村(現喜多方市岩月)の地主の長男で、第17代の当主だった。しかし05年1月、「本家の暮らしを立て直したい」と熊本移民会社に費用を払い、妻ミノとともにメキシコに渡り炭鉱で働いた。その後、北米西海岸に移り、ここでも炭鉱で働いた。ところが20年、年の瀬も押し迫った12月29日、作一は突然の落盤事故に巻き込まれ、翌日亡くなった。
作一は前妻との間に長男作意(さくい)、長女一井(いちい、またはかずえ)があり、2人は16年12月ごろから父作一に呼び寄せられて米国に来ていた。作意は18歳ごろに船でサンフランシスコに入り、3年後に妻シノと写真結婚していた。コロラド州で働いた後、カリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着いた。
20年、作一が亡くなる5カ月前に作意とシノの間に長男が誕生。この子が日系三世となるポールだ。
現在、喜多方市岩月の坂内家に作意の日記をワープロで打ち直した資料がある。現在の当主養作は「雄々しく育ってほしいという願いで『武雄』と名付けたと聞く。坂内家では代々の当主名に『作』という字を使うが、ポールに付けなかったのは『アメリカで生きていこう』という決意の表れでは」と語る。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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