【平成元年】プロ野球・中畑清引退 『絶好調男』日本シリーズの花道弾

 
日本シリーズで放った現役最後の本塁打を回想する中畑さん

 平成最初のプロ野球・日本シリーズは、「絶好調男」の引退の舞台でもあった。1989(平成元)年10月29日、藤井寺球場で行われた巨人と近鉄による最終第7戦。「俺の出番はないな」。中畑清さん(64)=矢吹町出身=は、そんな思いで戦況を見守っていた。その時、チームメートの篠塚和典(当時利夫)さんが、藤田元司監督(当時)に中畑さんの出場を直訴する様子が目に入った。

 すると、リードしていた6回表に出番が回ってきた。「想定外だった」という打席での初球は力なく空振り。「これは真剣勝負。(俺は)失礼な気持ちで臨んでいた」と実感し、気持ちを入れ替えた2球目だった。一本足打法のタイミングで直球を強振すると、打球は左中間スタンドに飛び込んだ。

 現役最後のダイヤモンド一周は支えてくれたファンのため、ガッツポーズなど「全てのパフォーマンスを披露した」。ベンチも「少年野球の子どものように大はしゃぎ。仲間には感謝しかない」。この試合を8―5で制した巨人の「3連敗4連勝」という偉業を、自身の花道にしてみせた。

 「平成」は、指導者として歩んだ第二の人生と重なる。最大の転機は2004(平成16)年、初めてオールプロで挑んだアテネ五輪。長嶋茂雄巨人終身名誉監督が率いたチームに、コーチとして参加。しかし長嶋監督が病に倒れ、監督代行を任された。金メダルへの重圧を体で受け止めながら指揮を執り、銅メダルを獲得。「五輪は特別な空気を持っている。選手は最高の試合をした。監督の責任、厳しさを学んだ瞬間だった」と振り返る。

 11(平成23)年12月には、横浜DeNAの初代監督に就任した。「故郷、福島が好き。(監督として)福島の元気を発信できると考えた」。就任の陰には、同年3月の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故により、甚大な被害を受けた故郷への思いがあったと明かした。

 ◆『長嶋イズム』

 「長嶋監督は太陽のような存在。大げさだけど、意志を継ぐ俺が元気をアピールしないと」。"長嶋イズム"を体現するかのように、監督としてグラウンド内外で現役時代をほうふつさせる振る舞いを披露。チームの礎を築くとともに、福島の子どもたちに元気を発信し続けた。

 20年の東京五輪では、本県で野球・ソフトボール競技が行われることも決まった。「震災を忘れていくのが怖い。熱を呼び起こす『福島オリンピック』にしたい」。妻仁美さんを亡くした際に感じた家族、友人らの支えの大きさを胸に刻む。「大事なのは、人と人との絆。みんなが一つになるなら、スタンドで(野球やソフトボールの)応援団長でもやるよ」。福島が復興し"絶好調"となるまで、挑戦は続く。

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 なかはた・きよし 1954(昭和29)年、矢吹町生まれ。安積商(現帝京安積)高、駒大卒。75年、ドラフト3位で巨人入団。主に一塁手、三塁手として活躍、第45代4番打者も担った。引退後は巨人打撃コーチなどを経て、横浜DeNA初代監督を務めた。

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 【平成元年の出来事】 
8月・台風13号直撃、県内では死者12人、行方不明2人
  ・作曲家・古関裕而さん死去
9月・国道115号土湯トンネルが開通
10月・プロ野球巨人・中畑清選手が引退
  ・安積女(現安積黎明)高が全日本合唱コンクールで10年連続金賞