【平成11年】首都機能移転 白熱の誘致合戦も...議論霧散「やっぱりな」

 
「栃木・福島」地域が候補地に選ばれると、県庁に看板が掲げられるなど本県で大きな期待感が広がった=1999年12月

 国の機関を本県に移す―。そんな構想が現実味を帯びた時代だった。1999(平成11)年12月、政府の審議会が首都機能移転の候補地に「栃木・福島」「岐阜・愛知」、準候補地に「三重・畿央」を選定すると、県内には大きな期待感が広がった。

 「新しいものを県土に追加できることは、次の一歩を踏み出せる大きな力になる」。当時、県庁内に設置されていた首都機能移転対策室の室長だった蛭田勇成さん(70)は、人的交流の活発化や県内産業の発展はもちろん、首都機能移転が県民性の向上につながると確信していた。首都機能移転は東京の過密解消や首都直下地震に備える防災対策の観点から浮上した。80年代のバブル経済による地価高騰が拍車を掛け、国会でも首都機能移転の議論が活発化し、92年に国会等移転法が成立。本県でも96年、佐藤栄佐久知事をトップに各部局長を構成員とする対策本部が設置され、誘致合戦に名乗りを上げた。

 誘致合戦では、東北地方での仙台一極集中に対する危機感から、本県をPRする狙いもあった。「本県が埋没しないよう、全国に発信する一つの事業として捉えていた」と蛭田さん。"森にしずむ都市"をキャッチフレーズに冊子を作り、テレビCMやポスターなどさまざまな媒体を使って宣伝を強化した。「栃木・福島」に含まれる本県南部の阿武隈地域には、国会議員の視察団も訪れた。

 しかし、候補地の一つに選定されたものの、国の財政が悪化する中、十数兆円ともいわれた移転費用を確保する見通しは立たず、衆参両院の特別委員会は2003年に候補地の絞り込みを断念。議論の熱は急速に冷め、「やっぱりな、という落胆が広がった」と蛭田さん。当時、ほかの職員から慰めの言葉を掛けられたのを覚えている。国会での議論は事実上ストップし、本県も対策室を企画調整課内に集約した。ただ、国会の動きについての情報収集は続けている。

 蛭田さんは現在、楢葉町の一般社団法人「ならはみらい」で専務理事を務め、帰還者の生活再建を支援する。震災と原発事故では地域コミュニティーづくりの大切さを痛感した。首都機能移転という夢の実現に奔走した蛭田さん。東京一極集中による人口減少は続くが、「小さくても、そこで住む人が人生を楽しく全うできる。そういう生活圏をどうつくるかが大切だ」と前を向く。

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 首都機能移転 1980年代のバブル経済による地価高騰の影響で、国会での議論が活発化。90年には衆参両院が国会移転を決議、92年には国会等移転法が成立。政府の審議会は99年に3候補地を選定したが、十数兆円ともいわれた移転費用を確保する見通しは立たず、衆参両院の特別委員会は2003年に候補地の絞り込みを断念。国会の議論は事実上ストップしている。

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 【平成11年の出来事】
2月・地域振興券の交付始まる
  ・阿武隈川の「平成の大改修」が着工
6月・福島医大病院で県内初の脳死移植
  ・福島空港に国際定期便

 〔国内の出来事〕▼茨城県東海村で国内初の臨界事故、被ばく者が死亡▼日産自動車が仏ルノーの傘下に▼携帯電話・PHSの加入台数が5000万台を突破し番号も11桁化▼ヤマンバファッション出現
 〔流行語〕「リベンジ」「雑草魂」
 〔ヒット曲〕速水けんたろう・茂森あゆみ「だんご3兄弟」宇多田ヒカル「Automatic」