【 深川 】<草の戸も住替る代ぞひなの家> 時代を超え残る俳聖の心

 
隅田川を望む松尾芭蕉の座像=東京都江東区・芭蕉庵史跡展望庭園

 JR福島駅から東北新幹線を使うと上野駅まで約1時間半。この数十年間に、旅は急激に変化した―などと考える間もなく上野に着いた。目指すは「おくのほそ道」の旅の起点、東京・深川である。

 深川は、東京都江東区の北西、隅田川の左岸に位置する。松尾芭蕉が長く住んだ土地だ。

 芭蕉は伊賀上野(現三重県伊賀市)の出身。農家の次男に生まれ、仕えた武士の元で俳諧の腕を磨いた。諸説あるが29歳(数え年。以下同じ)のころ、俳諧師として身を立てるため江戸に移り住んだという。

 詩想深める拠点

 芭蕉が深川で暮らし始めたのは37歳の1680(延宝8)年冬という。門人から贈られたバショウ(バナナに似た多年草)が家の周りに茂ったため、この草庵を「芭蕉庵」と呼び、俳号を「芭蕉」と名乗るようになった。

 当時、芭蕉はすでに江戸俳壇で地位を確立していたが、深川は江戸の町はずれ。なぜ一流俳諧師がこの地に引っ込んだのか、直接の動機は不明だという。

 以来14年間、芭蕉は、この隅田川のほとりで暮らした。その間「おくのほそ道」の旅を含め4度の旅に出掛けた。芭蕉が没したのは51歳の1694(元禄7)年10月、大坂でだが、この時も深川から出発した旅の途中だった。

 有名な句〈ふる池や蛙(かわず)飛び込む水の音〉を詠んだのも深川。この地は、芭蕉にとって旅のベースキャンプ、詩想を深める拠点だった。

 さて現代。大江戸線の森下駅で下車し、江東区芭蕉記念館がある界隈(かいわい)をぶらつく。

 住宅街と商業地が接し、うっすら下町の風情が漂う。大通り沿いには日中も営業する居酒屋が。「いかにんじん」の貼り紙を見て飛び込んだ店内では、老若男女が和気あいあい。店員が「福島とゆかりはないが、オーナーが気に入りメニューにした」と言う、ニンジン多めの一品を食べ、街の人なつっこさを感じた。

 風流とは無縁そうな大通りから横町へ入ると「深川芭蕉通り」の表示や「芭蕉そば」ののれんが現れた。芭蕉の気配が徐々に増す。

 民家と民家の間には小さな「芭蕉稲荷神社」。境内の案内板に、芭蕉庵は消滅したが1921(大正10)年、東京府が、同神社のある常盤1丁目を旧跡に指定した―とある。この付近に庵(いおり)があったらしい。

 近くに隅田川を望む絶好の場所を見つけた。「芭蕉庵史跡展望庭園」の表示に従い堤防を上ると、ビルの間をゆったり流れる大きな川の姿が現れた。庭園の奥には、頭巾に着物姿の芭蕉の座像があった。

 人生流転の実相

 「おくのほそ道」は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」と始まる。

 時の流れを旅人、人生を旅に例えたこの一節が、船が行き交う目の前の風景としっくりくる。芭蕉がこの地に住んだ理由のようなものが腑(ふ)に落ちた。

 数百メートル北にある芭蕉記念館では、別の芭蕉の気配を感じた。築山に立つ、芭蕉庵を思わせる、小さなかやぶきのお堂。中には小さな芭蕉像があった。

 「おくのほそ道」の中で一番最初に記された句〈草の戸も住替る代ぞひなの家〉。旅立ちを前に引き払った庵には、すでにほかの家族が住み、ひな人形が飾られ華やいでいる―。芭蕉が「人生流転の実相を感得した句」(萩原恭男)という。

 お堂の芭蕉像は、まさにひな人形とは対照的な孤独やはかなさを漂わす。ただ同時に、芭蕉が今もそこにいるような存在感、時が流れても消え去りはしない俳聖の魂のようなものも感じるのだ。

深川

 【 道標 】奉公先で俳諧と出会う

 松尾芭蕉は寛永21(1644)年、伊賀上野の松尾与左衛門家に次男として生まれました。幼名は金作、長じて宗房と名乗りました。
 13歳の時に父が亡くなり次男の芭蕉は10代の後半、地元の有力な武家、藤堂家に奉公します。ここで芭蕉は俳諧と出会いました。
 藤堂家の嫡子良忠は芭蕉より2歳年長で、俳諧を好みました。芭蕉は良忠の話し相手だったらしく、ともに俳諧を行うようになります。
 俳諧とは元々「滑稽・諧謔(かいぎゃく)」と同じ意味の言葉で、面白おかしいことをいう一般語。滑稽味を主眼にした連歌が「俳諧連歌」と呼ばれ、やがて「俳諧」と略称されるようになりました。
 芭蕉の俳壇デビューは21歳の寛文4(1664)年でした。俳諧撰集「佐夜中山集」に、宗房の号で発句二を採られたのです。以降いくつかの俳書に句を採られました。藤堂家では嫡男の愛顧を得て、故郷での生活は順風のようでした。しかし、良忠は寛文6年、病没してしまいます。
 芭蕉が藤堂家を辞した時期を含め、その後の動静はよく分かっていません。ただ伊賀上野で俳諧を続けていたのは確かで、寛文12(1672)年、自作を含む伊賀俳人の句を選び、自ら判詞(寸評)を加えた俳書「貝おほひ」をまとめました。同書からは、芭蕉が当時の俳壇で主導的な立場にあったことや、豊かな言語感覚が見て取れます。これを契機に芭蕉は故郷を離れ、活躍の舞台を江戸へと移していきました。而立(30歳)を前にした29歳のころです。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)