【 黒羽 】<夏山に足駄を拝む首途哉> 去りがたい人の温かさ包まれ

 
黒羽芭蕉の館周辺の遊歩道「芭蕉の道」。林の中を800メートルほど続く小道は、芭蕉が旅した当時の山道の雰囲気を醸し出している

 黒羽(現栃木県大田原市黒羽地区)は、平野と山の境にある。那須野ケ原の東端、那珂川沿いに築かれた城下町だ。

 黒羽藩1万8000石の城跡に上ると、木漏れ日に満ちた竹林や照葉樹の大木に出合う。清潔感のある、こぢんまりとした日なたの町、そんな印象を受ける。

 松尾芭蕉と河合曽良も、この町にたどり着いた時、安堵(あんど)とともに、何とも言えぬ温かさに包まれただろう。

 14日間もの滞在

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅6日目の1689(元禄2)年4月3日(陽暦5月21日)。「曽良日記」によると芭蕉らは黒羽城下の郊外、余瀬にあった「翠桃」(「ほそ道」では桃翠)という人物の家でわらじを脱いだ。

 翠桃は黒羽藩士、鹿子畑(かのこはた)豊明の俳号。同藩の城代家老、浄法寺(じょうぼうじ)高勝(号は桃雪、秋鴉(しゅうあ))の実弟で、兄弟ともに江戸で芭蕉と師弟として交流があった。

 「交流」と書くと素っ気ないが、芭蕉とこの兄弟、かなり仲が良かった。なにしろ芭蕉と曽良は、黒羽(余瀬を含む)に4月3日から16日まで14日間滞在している。およそ150日間の「ほそ道」の旅で、最も長く滞在したのがこの黒羽だった。

 「ほそ道」の黒羽のくだり前半では、芭蕉らと兄弟との楽しげな日々が描かれる。主人(浄法寺)とは日夜歓談を続け、弟は朝夕訪ねてきては自宅や親族宅にも招く。ある日は郊外を散策し犬追物の跡、玉藻の前の古墳、八幡宮など名所を見物した。観光ツアーである。

 記者もこの足跡をたどろうと地図を開くが見どころが多い。時間に限りがあるため、遠くから攻めようと雲巌寺へ向かった。雲巌寺は城下から東へ約12キロの山中にある臨済宗の禅寺。「ほそ道」では、雲岸寺として黒羽のくだりの後半に登場するが、芭蕉が訪れたのは滞在3日目と早い。俳聖も奥地から攻めたのかと思いつつ山道を上る。だが日光とは違い、案内板などほぼ皆無。迷ったかなと不安になった頃、朱塗りの橋が見えた。

 芭蕉の雲巌寺参拝の目的は、深川で禅を学んだ恩師、仏頂和尚(ぶっちょう)が籠(こ)もった草庵を訪ねることだった。「無一物をよしとする身には、雨を避ける小庵を結んだことも悔しいと和尚は言うのだから、さすがである」と芭蕉が感銘した逸話の地だ。芭蕉は、寺の背後の山をよじ登り、庵を見つけ〈木啄(きつつき)も庵(いお)はやぶらす夏木立(なつこだち)〉(寺をつつくともいわれるキツツキでさえ、ここは残してくれたのか)と詠んだ。

 今回背後の山には登れなかったが、朱塗りの橋から仰ぎ見る山門と周囲の巨木は予想以上の迫力。下界とは明らかに異なる場所だと分かる。ここは今も修行の地。思わず背筋が伸びた。

 再び黒羽城跡周辺へ戻ると、芭蕉に関する資料などを展示する「黒羽芭蕉の館」を訪れた。そして新井敦史学芸員に素朴な疑問をぶつけてみた。「芭蕉が黒羽を気に入ったのは分かる。ただ2週間の滞在は長い。飽きなかったのだろうか」と。

 「歓待や天候など長期滞在の要因はいくつかある」。そう新井さんは前置きし「中でも、地元の人々と連句を作るなどの交流に芭蕉は力を注いだようだ」と話した(道標参照)。

 教養備え朗らか

 さて日も暮れ、芭蕉にならい宿泊することにした。宿で教えられた和食の店に出掛け「昔、福島市に行ったなあ」と言う主人とカウンターで差し向かいでいると、常連客もやって来て会話が弾み出した。

 常連の一人、黒羽商工会の園部賢一会長は「雲巌寺は、吉永小百合さんがCM撮影して注目を浴びた。しかし『観光地ではない』が寺のモットー」など地元事情を解説。自称釣り師の女性は「芭蕉の句は『一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月』が人間くさくていい」と言う。

 ああ、これかと腑(ふ)に落ちた。黒羽の人たちは朗らかで、俳句の教養もある。芭蕉もそんな人々と連句を楽しんだ。長逗留(とうりゅう)も納得なのだ。

 日を改め、郊外の句碑などを巡る。大きな案内板があるわけでもなく、広々した農地の中で道に迷う。一番見つけにくかったのが修験光明寺跡。芭蕉はこの寺で、修験道を開いた役行者の足駄(あしだ)(高下駄(たかげた))を拝み句を詠んだ。

 〈夏山に足駄を拝む首途哉(かどでかな)〉

 2週間の滞在で心身ともにリフレッシュした芭蕉の再出発の決意の句といわれる。

 (原文解釈は佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」による)

【黒羽】<夏山に足駄を拝む首途哉>

 【 道標 】受け継がれる俳諧文化

 芭蕉一行が黒羽に長逗留(とうりゅう)した要因の一つは、客観的に見て、滞在した14日間のうち6日間が雨天だったことです。降り込められ滞在が延びたと考えられます。
 もう一つ大きな要因は、弟子の浄法寺桃雪、鹿子畑翠桃らに歓待され、居心地がよかったことでしょう。さらに、弟子兄弟に限らず地域の人たちも、芭蕉を誘い名所旧跡を案内しています。また、出掛けるだけでなく、特に鹿子畑家に泊まっている時は、芭蕉たちは何日かかけ地元の俳人たちと一緒に連句を作っています。芭蕉も力を注ぎ、日数を費やしたことで滞在も延びたのだと思います。
 黒羽では古くから複数の吟社が活動を続け、現在も2万人弱の地域に三つの吟社があります。小中学生が参加する子ども俳句大会も毎年恒例です。「ほそ道」の旅300年の1989(平成元)年には「黒羽芭蕉の館」が開館。同年からは「黒羽芭蕉の里全国俳句大会」が毎年6月(今年は23日)に開かれています。連綿と続くこの風土を芭蕉は愛したのかもしれません。(大田原市黒羽芭蕉の館学芸員・新井敦史さん)