【 黒羽~芦野 】<田一枚植て立去る柳かな> 憧れの地で先人しのぶ

 
田植えが始まった田園地帯に立つ遊行柳。現在は昭和49年に植樹されたという柳2本が観光客を迎える=5月3日、那須町

 1689(元禄2)年4月16日(陽暦6月3日)。江戸出発から19日目。松尾芭蕉と河合曽良は、黒羽藩家老(館代)浄法寺(じょうぼうじ)高勝が用意した馬に乗り黒羽をたった。

 目指す陸奥の玄関、白河の関周辺までは、黒羽から北へ直線で約25キロ。南北に延びる東山道をたどれば徒歩で1日足らずの距離だが、芭蕉らは北西へ進み、那須の奥地に分け入った。

 このくだり、現実には道なき道を進むアドベンチャー的な展開だったが、「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)では省略の妙が施され、一瞬の叙情を切り取る芭蕉の腕がただただ光る。

 名残惜しみ出発

 この先しばし、簡潔な「ほそ道」の記述に沿って進む。

 芭蕉らが、馬のくつわを引く馬子に先導され進んだのは那珂川右岸の原野。約8キロ(余瀬―野間)の道のりを進む途中、芭蕉は馬子から「(句を書いた)短冊をください」と請われ、風雅なことを言うなと思いながら一句詠んだ。

 〈野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす〉

 ホトトギスが鳴いた方向、向かって横の方へ馬を引き向けてくれ、の意。

 初夏の草原を行くと、横に見える木立の方からかホトトギスの高い声が響く。この後、馬は声の方を向いたのかどうかは分からないが、句を読むと、馬が90度振り向いて止まる躍動感のある映像を思い描いてしまう。

 深読みすれば、芭蕉には、ホトトギスの声が黒羽の人々の別れのあいさつに聞こえたのかもしれない。そして、名残惜しいが引き返すわけにもいかず、馬を後ろでなく「横に向けてくれ」と言ったとも思える。

 空間の奥行きと動き、詩情に富んだ情景が浮かぶのだ。

 一気に場面転換

 こうして物語に酔っていると次の瞬間、場面は一気に那須の山奥にある名所殺生石へ飛ぶ。

 殺生石は「九尾の狐」伝説で毒気を出し生き物を殺したと語り継がれる溶岩(群)。毒気の正体は、地下から噴出される硫化水素などの有毒ガスだ。

 ここでの記述は「石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」と短い。だが、この簡潔さゆえに、すごみがある。

 この後、芭蕉らは殺生石のある那須湯本から下り、南東へ約20キロ離れた奥州街道の宿場芦野へ飛んだ。この展開も急だ。

 目的は「清水ながるゝの柳」(遊行柳(ゆぎょうやなぎ))。平安末期から鎌倉初期の歌人、西行が「道の辺に清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」(「新古今集」)と詠んだ柳である。遊行柳の名は、この地を舞台にした同名の謡曲による。

 諸国を遍歴した西行は、芭蕉にとって憧れの人物だった。西行ゆかりの柳についても、弟子で芦野領主(旗本)の芦野民部資俊(みんぶすけとし)(俳号・桃酔)から「お見せしたい」と言われていた。急な場面展開は、早く行きたいという心理表現か。いずれにせよ、憧れの地で芭蕉は一句を詠んだ。

 〈田(た)一枚植(うえ)て立(たち)去る柳かな〉

 柳の下で昔をしのぶうち、一枚分の田植えが終わっており、思いを残しつつ私もここを立ち去る、の意。西行に自身の姿を重ねたようだ。

 遊行柳は、現在も国道294号沿いの水田の真ん中で枝を広げていた。地元の人々に代々植え継がれてきたという。辺りは川沿いに平地が開け、空も広い。開放感に満ちた空の下、柳の存在感はなかなかのものだ。

 芭蕉や西行をまねて、しばらくたたずんでみた。そして、手持ちぶさたに100メートルほど先の湯泉神社(上の宮)まで歩く。小さな社には、小さな芭蕉の人形と栗の実が供えてあった。誰が供えたか分からないのだが、旅人は絶えないのだなと思った。

 さて補足である。「ほそ道」では那須町高久―那須湯本・殺生石―芦野の道のりが語られていないが、この道中にも芭蕉は句を残している。雨のため4月16、17日宿泊した高久覚左衛門(「曽良日記」では角左衛門)宅では〈落くるやたかくの宿の郭公〉。同18、19日泊まった那須湯本では〈湯をむすぶ誓も同じ石清水〉〈石の香や夏草赤く露あつし〉と詠み、それぞれ温泉神社と殺生石に句碑がある。

 (原文解釈は佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」による)

【黒羽~芦野】<田一枚植て立去る柳かな>

 【 道標 】近畿と東北結ぶ幹線道

 東山道は古代の近畿地方と陸奥(むつの)国(くに)を結ぶ幹線道でした。原形は4世紀ごろできたと考えられています。
 時代とともに畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5国)の中央政権には、蝦夷(えみし)と呼ばれた人々を支配下に置くためにも、道路整備が重要になりました。律令国家が確立した8世紀の奈良時代以降、〈1〉東国から畿内に租庸調(そようちょう)(税)を運ぶ〈2〉東国へ中央政権の意志を伝える〈3〉畿内と東国の間で、兵士などの人員や物資を流通させる―など、東山道の往来は活発さを増します。
 栃木・福島の県境の、那須町伊王野(いおうの)付近には「黒川駅(くろかわうまや)」、白河市周辺には「雄野駅(おのうまや)」という東山道の中継施設が置かれました。
 奈良時代の政権は、724年に陸奥の地に軍事拠点施設「多賀城(たがじょう)」(宮城県多賀城市)を、728年には白河に「白河の関」を設け蝦夷に対応しました。
 しかし、これらの軍事施設も、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした頃には、その役割を終えていたようです。
 鎌倉時代、那須町の東山道沿いには、那須与一の血筋を持つ伊王野氏、やや離れて芦野氏が地頭として存在しました。
 東山道は、伊王野の地を通り簑沢(那須町)を経て、白河市旗宿へ抜けたと考えられ、後年、白河藩主・松平定信は、この旗宿を「白河の関」の地であると推定しました(旧奥州街道「境の明神」周辺との説もあります)。
 江戸時代、東山道沿いの伊王野氏は滅び、芦野氏が拠点とした奥州街道の芦野は宿場町としてにぎわいました。1689年、松尾芭蕉は「白河の関」を目指し芦野宿をたつと、奥州街道を白坂で右折し東山道に出、そこから旗宿へ赴いたと考えられています。(前那須歴史探訪館長・斉藤宏寿さん)