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一力の客室からは、窓辺のすぐ近くに「水月園」を望むことができる。磐梯熱海温泉から西に向かって中山峠を越えると、青々とした水を湛(たた)える猪苗代湖があるが、そこを源とする五百川から流れるせせらぎは、月の光ばかりではなく、室内の灯りも川面に浮かべるのである。
久米はどんな思いで当時滞在していたのだろうか。昭和16(1941)年12月8日に太平洋戦争が勃発ぼっぱつし、それを受けて翌年の6月、社団法人日本文学報国会が設立され、久米は事務局長に就任した。
しかし、その職に長くとどまることはできなかった。昭和18(1943)年10月には辞任しているからだ。敷和男作製の年譜では、昭和19年が抜け落ちている。終戦の前の年であるだけに、戦争を讃美した負い目にさいなまれたのではなかろうか。
久米は幼いときに父由太郎を亡くしている。明治31(1898)年に、長野県上田の小学校の分教場が火事になり、そこにあった明治天皇の「御真影」が焼失したため、父はその責任を取って自決した。そうした不幸な出来事があったからこそ、母幸子の実家がある安積郡桑野村開成山に身を寄せたのである。
三汀という俳号を久米は持っていた。俳句をつくり始めたのは、県立安積中学時代であった。郡山市こおりやま文学の森資料館発行の「久米三汀の世界―俳人久米正雄と親交を深めた人々」によると、国語教師田辺三貝と野球部顧問である西村雪人の手ほどきを受けた。俳号も、久米が育った開成山の3つの池にちなんで付けたといわれる。
中学5年のときにすでに、新傾向派の河東碧梧桐門下として名をなし、「魚城移るにや寒月の波さヾら」という句は、とくに高い評価を受けた。魚の大群が移動するさまは、水面が盛り上がってきてお城のように見え、冬の月が映った波がざわめいているというのだろう。
正岡子規の門下が群峰吟社に結集し、それが後に新傾向派に大挙して移った土地柄であるだけに、久米もその影響下にあったのである。花鳥風月を詠むのではなく、あえて破調の句に挑戦しようとしたグループがあったのだ。
私にとっての久米とは、漱石門下が集まる木曜会のメンバーの一人であった。漱石を中心にした雑談会に参加することになった経過を書いたのが、昭和22年作の「風と月と」である。
また、漱石の長女筆子との恋がかなわず、友人の松岡譲と恋敵になるという皮肉な結末を描いた「蛍草」という新聞小説も手がけている。
会津の猪苗代湖の上戸浜などが舞台になっている「受験生の手記」は、大正7(1918)年作の「学生時代」という短編集に収録されている。主人公は、受験に失敗するだけでなく、最愛の人が弟に好意を寄せていることを知ってしまい、世をはかなんで湖水に身を投げたのである。
久米が「四季彩一力」に愛着を感じていたのは明らかである。たまたま私が取材でそこを訪ねた日も、春の雪が舞っていた。そして夕暮れ時でもないのに「一力の灯は庭川に雪暮るゝ」という情景を勝手に想像してしまった。
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