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しかし、それはあくまではかない恋でしかなかった。胸を患っていた美那は、病を悪化させて息絶えた。鵜飼と一緒に海に泳ぎに出かけたおばは、二度と戻らなかった。
檀は、昭和10(1935)年に日本浪漫派に合流したが、同じグループに属した伊東静雄の詩「水中花」の「遂ひ逢はざりし人の面影」という一節が身に染みてならない。
檀の幼き日に母親は若い医大生のもとに出奔しゅっぽんした。その悲しみを埋めようとして、かえって傷つくことになったのだと思う。愛人との生活を赤裸々に描いた「火宅の人」は業苦の火で自らを焼くことでもあった。
檀一雄未亡人のヨソ子さんは、母との別離が、檀に与えた深刻な影響を見逃さなかった。
「檀には、女性の体に対する癒やしがたい飢えのようなものがあったような気がする。その飢えとは、直接性的な欲望に結びつくものではないが、柔らかいもの暖かいものとしての女性には、常に自分の傍にいてほしいという強い欲求があった」(『檀』・沢木耕太郎)
檀が郡山市の磐梯熱海温泉「四季彩一力」に初めて逗留(とうりゅう)したのは、昭和36(1961)年のお盆の時期であった。
女将(おかみ)の小口潔子さんによると、タレント永六輔さんも一緒だった。2人して夜更けまで話し込んでいるうちに、腹が減ってきた。何気なく庭に目を転じると、池に鯉こいが沢山たくさんいる。
永さんは、檀が包丁を持参していたのを知っていたので、1匹捕って鯉の洗いにしようとした。障子をあけて庭に下り、池でパシャパシャしていたら、何時いつの間にか大騒ぎとなった。
潔子さんの父で、社長であった小口周三さんから「この夜中に池に入って鯉を捕るとは何事だ。釣るならともかく」と怒鳴られたのだという。まだまだ檀も元気だった頃ころで、永ともども、はしゃぎ回ったのだろう。
「火宅の人」の最初の一 編「微笑」が「新潮」に発表されたのは、昭和36年9月号。最後の章を書き終えたのは昭和50(1975)年10月号であった。その長編を書き出した時期に、檀はそこに滞在中だったのである。妻子ある檀が、愛人である入江久恵と同棲するようになったのは、昭和31(1956)年8月以降だ。それから都内のアパートを転々とし、昭和37(1962)年の正月に別れた。磐梯熱海温泉に足が向いたのは、傷心を癒やすためだったのだろう。
檀は、昭和45(1970)年7月に「檀流クッキング」を刊行しており、その頃にも長期滞在している。檀にとっては馴染(なじ)みの宿のせいもあって、調理場で腕を振るったこともあったろう。
檀一雄全集に、磐梯熱海温泉のことがまったく出てこないのには、戸惑いを覚えたが、愛着があったからこそ、かえって活字にしなかったのではなかろうか。 檀は生前に自らの墓碑銘を残しているが、そこに刻まれた詩は、「四季彩一力」の庭園を思わせる情景が詠まれている。
墓碑銘
火宅の人・風の奈落
石ノ上ニ雪ヲ
雪ノ上ニ月ヲ
ワガ コトモナキ
シジマノ中ノ憩哉
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