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各部屋の縁先には、それぞれ自炊用の七輪が備えつけてあった。その当時は、湯治客が中心だったのだろう。硫黄っ気が強いので、木材もタイルも駄目で、日本最初のビニール風呂を売りにしていた。
料理の方も素朴そのものであった。夜の膳ぜんには、鯉こいの洗いに鯉こく、蕨わらびにぜんまい。「海のものの出ない所が心にくい」と河上も満足したようだ。
しかも、西村屋では、その30年前に、中山義秀が、最初の妻赤田トシ(敏)と新婚旅行で泊まった部屋に回された。中山は、その部屋で悲恋の小説『七色の花』を執筆したのだった。
河上は、長州人でありながらも、大鳥を突き放したわけではなかった。妻の祖父ということばかりでなく、拠(よ)り所となる徳川が崩壊してしまったのに、戦場を流浪しなくてはならなかった後ろ姿を、河上はしっかりと見てとったのだろう。
敵の攻撃を撃退するには、あまりにも広漠として、難渋する地形である。さらに、官軍が3000人で攻めてきたのに比べ、大鳥の軍勢は、会津軍を加えても700人しかいなかった。
「大鳥圭介にとっては、自ら近代的に訓練した幕府の伝習隊その他を指揮して、宇都宮・奥日光と転戦し、遂にここでその手兵の多くを失い、その後は裏磐梯の方から仙台へ落ちのびて榎本武揚の海軍に投じ、函館へ脱走するのである」
河上は、コメントを一切省き、事実を書き記すことで、かえって大鳥の残像を浮かび上がらせたのだ。
母成峠に河上を案内したのは、宿の主人で、後に猪苗代町長になった故西村寅輔氏。寅輔氏の妻光子さんは、「道が悪くて難儀したようですよ」と語る。母成グリーンラインがまだ開通しておらず、狭い一本道を歩いて登ったのだった。
「途中湖水は見えないが、西に磐梯、北に吾妻の連峰、東には船明神、和尚山の後に時々安達太良の欠けた頂が顔を出す。厚ぼったい雲の多い晴天で、こういう秋の天気の常として、遠山はすべて濃紫色である」
さらに、河上は、母成峠から赤木平にも足をのばした。「茫々ぼうぼうたる草千里で、郡山・二本松から福島へ通じる東北本線沿いの平野を見降し、すばらしい眺めである」と感嘆の声をあげるとともに、「南の方の険谷が口を開いている所が、これも温泉で有名な岩代熱海で」と解説している。
また、その頃ころには、現在の磐梯熱海である岩代熱海と、中ノ沢温泉を結ぶ道路は、すでに工事が始まっていた。開通すれば、「中ノ沢温泉宿の縁側には、七輪など見当たらなくなるだろう」と予想している。
その後、母成グリーンラインは、昭和51年に開通。沼尻軽便鉄道は、昭和43年に廃止となり、55年の歴史に幕を閉じたのだった。
河上は、大鳥の事蹟を調べたばかりでなく、中山義秀の文学を生んだ温泉を堪能したのである。つわものどもの夢の跡を訪ねてみると、そこは切ない恋の物語の舞台であったのだ。
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