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   中ノ沢温泉 河上 徹太郎
【10月11日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

 

河上 徹太郎
 
 河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)明治35(1902)年長崎市生まれ、本籍は山口県岩国市。昭和55(1980)年没。文芸評論家、音楽評論家。代表作の『吉田松陰』や『日本のアウトサイダー』では、明治人のバックボーンを形成した儒教的教養に注目。松陰についても、精神の純一さを評価した。

 

切ない恋薫る“夢の跡”
河上が、大鳥圭介の取材に訪れ、中山義秀ゆかりの部屋に泊まった中ノ沢温泉の西村屋
 長州人である河上徹太郎が、猪苗代町中ノ沢温泉の西村屋に滞在したのは、昭和29年秋のことである。

 幕府軍の伝習隊を率い、賊軍となった、大鳥圭介を取材するためであった。大鳥は、河上夫人の祖父である。そんなこともあって、大鳥が官軍を迎え撃った、母成峠を踏査する気になったのだろう。

 河上は独り旅で、上野を朝9時に急行「青葉」で発ち、郡山で磐越西線に乗り換え、さらに、川桁駅から沼尻軽便鉄道を利用して、終点の沼尻に到着。そこから徒歩で20分かけて中ノ沢温泉に着いた。河上は、「だだっ広い真直な道を挟んで両側に温泉宿が列んでいる」という感想を書きとめている。
 

 各部屋の縁先には、それぞれ自炊用の七輪が備えつけてあった。その当時は、湯治客が中心だったのだろう。硫黄っ気が強いので、木材もタイルも駄目で、日本最初のビニール風呂を売りにしていた。

 料理の方も素朴そのものであった。夜の膳ぜんには、鯉こいの洗いに鯉こく、蕨わらびにぜんまい。「海のものの出ない所が心にくい」と河上も満足したようだ。

 しかも、西村屋では、その30年前に、中山義秀が、最初の妻赤田トシ(敏)と新婚旅行で泊まった部屋に回された。中山は、その部屋で悲恋の小説『七色の花』を執筆したのだった。

 河上は、長州人でありながらも、大鳥を突き放したわけではなかった。妻の祖父ということばかりでなく、拠(よ)り所となる徳川が崩壊してしまったのに、戦場を流浪しなくてはならなかった後ろ姿を、河上はしっかりと見てとったのだろう。

 敵の攻撃を撃退するには、あまりにも広漠として、難渋する地形である。さらに、官軍が3000人で攻めてきたのに比べ、大鳥の軍勢は、会津軍を加えても700人しかいなかった。

 「大鳥圭介にとっては、自ら近代的に訓練した幕府の伝習隊その他を指揮して、宇都宮・奥日光と転戦し、遂にここでその手兵の多くを失い、その後は裏磐梯の方から仙台へ落ちのびて榎本武揚の海軍に投じ、函館へ脱走するのである」

 河上は、コメントを一切省き、事実を書き記すことで、かえって大鳥の残像を浮かび上がらせたのだ。

 母成峠に河上を案内したのは、宿の主人で、後に猪苗代町長になった故西村寅輔氏。寅輔氏の妻光子さんは、「道が悪くて難儀したようですよ」と語る。母成グリーンラインがまだ開通しておらず、狭い一本道を歩いて登ったのだった。

 「途中湖水は見えないが、西に磐梯、北に吾妻の連峰、東には船明神、和尚山の後に時々安達太良の欠けた頂が顔を出す。厚ぼったい雲の多い晴天で、こういう秋の天気の常として、遠山はすべて濃紫色である」

 さらに、河上は、母成峠から赤木平にも足をのばした。「茫々ぼうぼうたる草千里で、郡山・二本松から福島へ通じる東北本線沿いの平野を見降し、すばらしい眺めである」と感嘆の声をあげるとともに、「南の方の険谷が口を開いている所が、これも温泉で有名な岩代熱海で」と解説している。

 また、その頃ころには、現在の磐梯熱海である岩代熱海と、中ノ沢温泉を結ぶ道路は、すでに工事が始まっていた。開通すれば、「中ノ沢温泉宿の縁側には、七輪など見当たらなくなるだろう」と予想している。

 その後、母成グリーンラインは、昭和51年に開通。沼尻軽便鉄道は、昭和43年に廃止となり、55年の歴史に幕を閉じたのだった。

 河上は、大鳥の事蹟を調べたばかりでなく、中山義秀の文学を生んだ温泉を堪能したのである。つわものどもの夢の跡を訪ねてみると、そこは切ない恋の物語の舞台であったのだ。

 


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