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   川上温泉(上) 高村光太郎
【10月25日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)
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高村光太郎
 
 
 高村光太郎(たかむら・こうたろう) 
明治16(1883)年東京下谷区西野生まれ。昭和31(1956)年死去。詩人、彫刻家。詩集としては『智恵子抄』『道程』。彫刻としては「手」「裸婦像」が挙げられる。戦争に協力した懺悔の念から、63歳から70歳まで、岩手県花巻市の山小屋に引きこもった。

 

寄り添う「山麓の二人」
光太郎と智恵子が病気療養のため訪れた川上温泉の滝の湯付近。散策する人が通る以外は昔の面影をしのばせるものはない
 壊れやすい魂が必死に何かにすがりつこうとするのは、人間の弱さ故であり、誰がそれを批判できよう。

 悲劇的であったのは、自分を支えてくれた、最愛の者の魂が自分以上に傷付きやすかったことだ。

 高村光太郎の『智恵子抄』に収録された「山麓の二人」の詩からは、かつて林や草原を駆け抜けた風のざわめきが、どこからともなく聞こえてくる。


 芒すずきを揺らす山の風にさらされながら、夫婦の愛が断ち切られてしまうことがないように、2人の絆きずなを確かめようとしたが、それがかえって光太郎を苦しめることになった。

 ガラス細工のように簡単に砕け散っていく魂を、しっかりと繋つなぎとめておこうとしても、運命の女神は無慈悲にも2人を引き裂いたのだった。 

 「二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は/険しく8月の頭上の空に目をみはり/裾野とほく靡なびいて波うち/芒ぼうぼうと人をうづめる/半ば狂へる妻は草を藉しいて坐し/わたくしの手に重くもたれて/泣きやまぬ童女のやうに慟哭どうこくする/わたしもうぢき駄目になる」

 光太郎が、夫婦して猪苗代町の川上温泉に滞在したのは、昭和8年8月のことだ。病気療養のために、宿泊客に気を使うことがない、静かな温泉地を物色したのである。

 妻智恵子が精神に変調を来したのは、昭和6年の夏であった。翌年7月に自殺未遂をしている。

 2人はまず、沼尻高原の裾すそに位置する中ノ沢温泉に一泊し、それから川上温泉に向かった。智恵子に寄り添いながら光太郎は、祈るような気持ちで、近づいてくる磐梯山の頂を仰ぎ見たのではなかろうか。

 その当時は、川上温泉から先は、人があまり足を踏み入れない原生林の山であった。

 五色沼や桧原湖までは、それぞれ2キロから4キロしかないが、「裾野とほく靡いて波うち/芒ぼうぼうと人をうづめる」といった風景が、どこまでも続いていた。

 智恵子をしっかりと抱きしめて「わたしもうぢき駄目になる」という切実な訴えに、必死に答えようとすればするほど、光太郎は悲しい現実に打ちのめされた。

 「涙にぬれた手に山風が冷たく触れる/わたくしは黙って妻の姿に見入る/意識の境から最後にふり返って/わたくしに縋すがる/この妻をとりもどすすべが今は世に無い」

 智恵子の意識がはっきりしているうちに精いっぱいの愛を捧ささげようとする。「わたしは黙って妻の姿に見入る」というのは一心同体であることへの確認なのだろう。いかに困難であろうとも、智恵子の魂を抱き寄せたかったのだろう。

 驚くことは、そこまで愛を突き詰めようとする光太郎が、51歳であることだ。智恵子も48歳になっており、寸部の隙すきがないように密着しようというのは、あまりにも純粋すぎる。

 桧原湖までが簡易舗装されたのは、昭和30年代に入ってからである。さらにスカイライン、レークライン、スカイバレー、ゴールドラインが開通したことで、光太郎ゆかりの温泉地は、通過地点となってしまった。

 現在の温泉街は、まったく趣が変わってしまった。2人が宿泊した旅館滝の湯が、ログハウスとなったばかりでなく、茅葺かやぶきの平屋建てだったという面影を偲しのばせるものは、何一つ残っていない。

 そこで民宿を営む、町議会議員の武藤勲さんは「以前は磐梯山の登山客や湯治客で賑にぎわったこともありましたが、それも昔の話になってしまいました」と語る。

 かすかな風の音だけの草原で、2つの影が寄り添っていたのは、70年以上も前の出来事である。変わらないのは、頬ほおを打つ山の風だけだ。

 


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