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   磐梯熱海温泉(3) 
【4月19日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)
▽3

 

深田久弥
 
深田久弥(ふかだきゅうや) 深田久弥(ふかだ・きゅうや)明治36(1903)年石川県江沼郡大聖町生まれ、昭和46(1971)年没。山岳紀行家。代表作は昭和39(1964)年発行の「日本百名山」。飯豊山、吾妻山、安達太良山、磐梯山、会津駒ケ岳などもふくまれ、名山への思い入れがこめられている。

 

山恋の情湧く玄関口
磐梯朝日国立公園の玄関でもある磐梯熱海温泉の全景
 郡山市の磐梯熱海温泉は、磐梯、安達太良、吾妻といった一大山群の周辺部にあたる。

 深田久弥が磐梯熱海温泉に宿泊したのは、昭和35(1960)年11月16日のことであった。「わが愛する山々」の「安達太良山」のなかで、深田はどのようなコースを辿(たど)ったかを、克明に記している。

 その前日に準急で上野を発(た)ち、正午には二本松市に着いた。案内を買って出たのは、郡山市役所商工課の藤森英二氏と岳温泉の佐藤龍一郎氏だ。
  

  「私には2人の好伴侶が与えられた」と深田が書いていることからも、頼りがいのある助っ人だったようだ。藤森氏は平成5(1993)年から12年間にわたって郡山市長を務めている。若い頃ころからバイタリティーがあったのだろう。

 一行が岳温泉のスキー場の斜面を登り始めたのは午後2時。斜面中央を真っ直ぐ登り切ると林に入り、急な登り口の連続になった。

 さらに、ダラダラの登りや平らな道を経て、烏川の対岸に渡ると、勢至平に出た。くろがね小屋に到着した時には、暗くなりかけていた。

 そこで一泊して、翌日は、安達太良山の頂上に立ってから、磐梯熱海温泉に下る道をとった。あいにくの雪で見通しも悪かったが、迷うことはなかった。

 沼ノ平の南側を通って、母成峠を目指した。彼方かなたに磐梯山が現れた赤木平で、熱海町役場の阿部泰治さんたちが焚き火をしながら、深田らを待っていた。

 そこから磐梯熱海温泉までは自動車を利用したが、デコボコ道であった。「勇敢な自動車はデコボコの山道を克服して、往還へ出た。この往還は熱海から母成峠を越えて沼尻へ通じるもので、戦前は馬車も通った古くからの道だそうだが、今は荒れて車の峠越えはできなくなったという。しかし熱海から磐梯国立公園へ入る観光ルートとして、この道路の復活も間もないことだろう」

 深田が予想したように有料道路として母成グリーラインが昭和51(1976)年9月1日から供用開始となり、猪苗代町沼尻と郡山市磐梯熱海町石筵を結ぶ10.6キロが整備された。

 これによって、沼尻に抜ける道が甦(よみがえ)った。若松から中山峠に出て二本松領に至るコースは、二本松街道と呼ばれていた。それとは別に、土湯峠を越える福島街道があった。この2つの街道の連絡道が母成越えなのである。

 砂利道でハンドルをとられながら運転したのとは違って、広々とした道路が安達太良のふもとを縫うようにしてつくられた。

 磐梯熱海温泉で深田は、地元の人たちからのもてなしを受けた。温泉街も、将来が約束されているかのような活気にあふれていた。

 「その夜は清楚せいそな新築の公営ホテルに泊まった。夕食には、阿部さんのほかに町長さんも見えて、着々発展しつつある温泉町の現在と将来の抱負について語られた。そう言えば、私がスキーを携えて、この温泉へ立寄ったのは、もう20年ほど前だが、その時と比べて見違えるほどの繁栄ぶりであった」

 昭和14(1939)年1月に、深田は山形県の五色温泉から東吾妻をスキーで南へ縦走。安達太良山の西側に位置する沼尻に抜けており、2度目の滞在であった。

 深田は11月17日には猪苗代湖の東南部の1000メートル内外の丘陵山脈である御霊櫃峠から三森峠までを踏破し、「こんな立派な磐梯山を眺めたのは初めてだった」と感想を書き残している。

 磐梯熱海温泉は、郡山市の奥座敷としてだけではなく、磐梯朝日国立公園への玄関口でもあるのだ。私も深田が歩いたルートを歩きたいと思う。「山恋の情」が湧(わ)いてくるはずだから 

 


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