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   木賊温泉と湯ノ花温泉(2)
【5月3日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

 

三田 幸夫
 
三田幸夫(みた・ゆきお) 明治33(1900)年横浜生まれ、平成3(1991)年没。登山家、エッセイスト。日本アルプスの登山の開拓者。昭和38(1963)年のマナスル第一次登山隊に隊長として参加。日本山岳会会長も歴任。日本の山河を愛したアルピニストであった。

 

深い感興湧く湯治場
当時の面影が残る、三田が宿泊した湯ノ花温泉の石湯=南会津町舘岩観光協会提供
 山の人生というものを私はまったく知らない。山に住みながら平地以上に尾根伝いを自由に行き来するという話を聞くと、別世界の出来事に思えてならない。

 今回のゴールデン連休の4月29日、私は南会津町舘岩の湯ノ花温泉を訪ねた。会津若松を車で出かけたのは、午後5時半を回っていた。国道352号を、栃木県の栗山方面に約3キロほど入ると湯ノ花温泉がある。共同風呂というのが目にとまったので、そこに車を横付けにした。午後7時を過ぎていた。

 手拭(てぬぐい)いを準備するのを忘れたので、近くの「湯本屋」から譲ってもらった。そして、私が何気なく三田幸夫の「銀山平より会津の山旅」のなかで、「湯本屋の火事のことが書かれているのをご存じですか」と賄いの人に声をかけると、ご主人と思われる男の人がわざわざ出て来られた。
  

 よくよくうかがうと、ご主人は、南会津町の誕生によって、最後の舘岩村長となった星光芳さん。湯本屋の会長でもある星さんは、「大正時代に焼けたことは聞いていますが、何せその頃ころはまだ生まれていませんから」と語っておられた。

 三田は、大正9(1920)年7月24日から8月3日までの日程で南会津を訪れている。まず最初に、只見川で一番奥の開墾地であった鷹の巣平に、桧枝岐から移住したばかりの星誠四郎に会いに出かけた。山の民から直接話を聞いたのである。

 只見川から桧枝岐までの道のりは、大白沢と只見川の合流点少し手前で会津側に渡り、トクサの沢、高見沢を経て、広沢田代で右手に燧ケ岳が聳そびえているのを目にしてから、桧枝岐に到着。宗七という心強い案内人も得た。桧枝岐から湯ノ花温泉に出発したのは、7月28日のことである。

 宿泊先の丸屋を後にしたのは午前7時40分。小繋峠と小峠を越えて舘岩の木賊とくさ温泉に到着したのは、午前11時50分。昼食をとってから午後1時半にそこを出て、唐沢峠を越えて湯ノ花温泉に着いたのは、午後3時。石湯という旅館に泊まった。湯本屋を予定していたのだが、火事で焼けてしまったからだ。

 石湯の名前の起こりは、川床の大きな石を穿うがってそれを石風呂にしたからであった。あまり整備されていなかったのだろう。三田は「木賃宿と同じだ」と評している。夕食に、飯の代わりにウドンを食べさせられてこれまた驚いた。宗七も「湯本屋が焼けなかったならばなあ、旦那だんな様にももっと綺麗きれいな温泉宿を案内できましたのに」と苦笑するしかなかった。それでも三田は、滅多めったに味わえない旅の出来事として、「かえって深い感興の湧くのを覚えた」と書いており、山の民への共感の方が優っていたのだと思う。

 湯本屋の星さんは、「尾瀬の長蔵小屋の初代平野長蔵の妻は、湯本屋の娘なんですよ」と教えてくれた。このため、長蔵小屋の人たちは、尾瀬沼から山越えをして湯本屋にやってきたという。山の民にとっては、道なき山を移動することも、あたりまえのことであったのだ。

 三田が湯ノ花温泉を選んだのは、田代山や帝釈山を登頂するためで、それぞれ7月29日、30日に極めている。とくに田代山では、「自然の美に打たれて感嘆の辞さえ忘れていた」と書き記すほどにまで感動し、「僅わずかに短い春を此の山頂に与えられた此等の可憐かれんな草や花には一刻でも暮れて行く日が惜しいように見えた」と絶賛している。

 三田にとっての湯ノ花温泉は、まったくの湯治場であったはずだが、幾星霜時は過ぎても、その面影はまだまだ残っている。田代山のお花畑を目ざす登山客が利用するのも、昔とまったく変わっていない。 

 


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