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   高湯温泉(1)庄野潤三
【5月10日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)
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庄野潤三
 
庄野潤三(しょうの・じゅんぞう) 大正10(1921)年大阪府生まれ、小説家。吉行淳之介、小島信夫らとともに「第三の新人」と呼ばれた。昭和30(1955)年に「プールサイド小景」で第32回芥川賞受賞。日本浪漫派の詩人伊東静雄が師。随筆風の小説は「手ざわり」を重視する。

 

風光映す人生の断片
庄野の宿泊した当時の面影が残る高湯温泉の玉子湯。「なめこ採り」は、ここでの経験を基に描かれた
 庄野潤三の「夕べの雲」が傑作であるのは、日々の生活が危うさの上に築かれているのを、私たちに気づかせてくれるからだ。

 神奈川県生田の多摩丘陵に住む、大浦一家の生活にしても、ほとんどがたわいない出来事である。ムカデが大発生して頭を悩ませたり、台所に落ちた雷に度肝を抜かれる。日々成長する子供たちと親との交流も、別に変わったところはない。

 しかし、夕暮れ時に、子供たちを呼びに行った主人公の大浦は、「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃ころはいつでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」といった不思議な気持ちになり、「そこにひびいている子供の声」すらも、もしかすると「幻の声かも知れなかった」という不安に襲われたのだった。
  

  庄野が福島市にある高湯温泉旅館玉子湯に一泊したのは、昭和35(1960)年6月上旬のことだ。翌月「文学界」に「なめこ採り」を発表している。車から降り立った庄野がまず目にしたのは、藁葺わらぶききの質素な浴場。すぐ近くには温泉の湧く口がある。不意に硫黄分の臭(にお)いが鼻をうった。

 最古参の番頭は親切で、話しぶりも誠実であった。庄野の連れの者が酒を勧めると、「柔道の選手が姿勢をしゃんとして坐すわった時のような恰好で」旅館のことや、自分の身の上を話してくれた。山を下りた庭坂の人間で、名前は幸之助。ダイナマイトで指をケガしたが、玉子湯のおかげで切断せずにすんだ。

 戦争中は、学童疎開で東京の荒川区の小学校から3年生が来た。女先生しかいなかったので「生徒が云うことを聞かない時は、この家でいちばんおっかない人になってくれ」と頼まれた。

 山歩きが楽しみで、ナメコ採りに朝の2時頃から起きて行く。ナメコは風で倒れたブナの木に生える。ブナの木に熊が棚をつくっていることがあるが、恐れる必要はない。「枯れた木の枝を叩たたく」と逃げてしまうからだ。

 現在の旅館玉子湯の後藤省一社長は、「幸之助さんの苗字は谷口です。よく働いてくれましたが、行儀がよくて、膝ひざを揃そろえて坐る人でした。小説に書かれている通りです」と語る。

 また、庄野が翌朝、窓から外を見ていると、藁葺きの浴場前の小さな橋の上では、ランドセルを背負った小学1、2年生の男女3人が時間をつぶしていた。3人は、温泉の涌き口の付近でしばらく遊んでから「裏の山へ登る道を少し上ったところで、土くれを拾ったり」していた。

 庄野もかなり気になったようで、「学校へ行かないつもりだろうかと思って見ていたら、そのうちに坂を上って、灌木かんぼくのかげに3人の姿が見えなくなった」と書いている。忽然こつぜんと消えたような印象を抱いたのだろう。

 当時の玉子湯の主人は、後藤社長の祖父の兵治さん。番頭幸之助の話によれば、明治16(1883)年生まれ、日露戦争に従軍してから養子に来た。庄野は、兵治さんが水まきをする姿も描写している。「しばらくすると、玉子湯の主人がホースを持って出て来て、前の道路に水をまき始めた。水は勢いよく飛ばないで、地面に落ちた」。

 磐梯吾妻有料観光道路が前の年に開通しており、藁葺きの浴場に面した道路は旧道となったが、水まきをかかさなかったのだ。

 「なめこ採り」は、玉子湯の風光を舞台にした庄野潤三の佳作である。「手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴つづって行く」(詩人伊東静雄の言葉)との言葉通りに、ほのぼのとした温かみが伝わってくる。

 


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