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山形県の白布、天元台からの方が近い西吾妻山を除けば、いずれも磐梯吾妻スカイライン周辺に聳そびえている。福島市の高湯温泉はその登山口である。
茂吉が高湯温泉吾妻屋に逗留とうりゅうしたのは、大正5(1916)年の夏のことである。現在の遠藤淳一社長の祖父である権治郎が、当時のことを、「東京の客人庭坂より馬にて来る」と日記にとどめている。
父の病気見舞いに山形県に出かけた帰りで、信夫郡瀬上町せのうえまちの門間もんま春雄が案内した。
茂吉が編集する「アララギ」で長塚節の追悼号を出すことになり、長塚と懇意にしていた門間が、そこに原稿を書いたことから、2人の交流が始まった。前年4月3日に、茂吉から「長塚さんの事是非御書き下されたく。期日はおくれてもよろしく候」というハガキを門間はもらっている。
「斎藤茂吉全集第33巻書簡一」によると、茂吉は、7月31日に、吾妻屋から瀬上町の門間の母親に宛あてて、歌を添えた絵ハガキを出している。7月24日からそこに来るまでの何日間かは、門間宅に世話になっており、お礼の意味もこめられていた。
5日ふりし雨はるるらし山腹の吾妻のさ霧天のぼりみゆ
8月8日の午前5時半に茂吉は上野に着いている。7日の夜は帰京の列車のなかであったろう。1週間そこに滞在していたといわれるが、霧が空に向かってのぼっていく光景を、茂吉は実際に目のあたりにしたのだろう。
この歌はまた、吾妻屋に茂吉が記念に書き残していたこともあり、昭和28(1953)年5月31日には、一切経山と吾妻小富士の間に位置する桶沼の側(そば)に歌碑が建立された。
吾妻の歌は、第二歌集である「あらたま」に収録されているが、生きている者の声が、重なり合う山に反響するのに驚いたり、平地にくだった時に、耳をついたカナカナという鳴き声にホッとしたのだった。
現身うつしみの声あぐるときたたなわる岩代のかたに山反響こだます
吾妻山くだりくだりて聞きつるはふもとの森のひぐらしのこゑ
また、吾妻屋で門間と意気投合したようで、茂吉は名前を入れた歌までつくっている。
霧こむる吾妻やまはらの硫黄湯に門間春雄とこもりゐにけり
門間が結核を発病したのは、それから半年後であった。茂吉も色々(いろいろ)と手紙でアドバイスをしたりしたが、快方に向かうことなく、大正8(1919)年2月13日、門間は福島三郡共立病院で死去した。まだ30歳であった。
茂吉は弟門間武夫に宛てた手紙で、「一しょに吾妻山に登って高湯の宿屋の一室で親身以上の生活をして一處に暮らした事も目の前に浮かんでくる」と回想しつつ、再会できなかったことについて、「御霊前に御わび申上げて下されたし」と頭を垂れたのだった。
茂吉は、吾妻屋で、母なる山への思いを強くしただけでなく、友人門間春雄を得たのである。
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