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   甲子温泉(1)結城哀草果
【5月24日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

 

 
 
結城哀草果(ゆうき・あいそうか) 明治26年(1893)年山形県山形市生まれ、昭和49(1974)年没。歌人。随筆家。同郷の斎藤茂吉に師事。写実的な作風によって、自然を詠んだだけでなく、農民の過酷(かこく)な現実を歌にした。農民の悲哀が切々と伝わってくる。

 

”人魚”と神秘的な遭遇
静寂が周囲を包む中で、川のせせらぎだけが聞こえ、秘湯そのものの甲子温泉の一軒宿・大黒屋
 農民歌人結城哀草果の歌は、ドキュメンタリータッチで、どこまでも写実的である。忘却の彼方かなたに追いやられた日本の農村が、一つ一つの作品から浮かび上がってくる。

 桑を呉れつつ摘みてみれば蠶かいこまであつくなりをる暑さなりけり

 昭和4(1929)年発行の第一歌集「山麓」に収められた作品だが、蠶を摘むというのは大変リアルなことであり、実感がわいてくる。

 哀草果は昭和10(1935)年10月、白河の甲子温泉に逗留とうりゅうし、翌年「温泉」5月号に「甲子温泉行」を発表。
  

 「人魚のごとき處女おとめ遊泳のさまを目のあたりにして、しばらく茫然ぼうぜんとしてをった。それはむしろ私に神秘感を與あたへたのであった」と書いている。

 写実的であるほど、目の前で起きていることに肉薄しなくてはならない。若々しい肉体を惜しみなくさらす處女に、哀草果は魅了されたのだろう。

 哀草果は岩代熱海(磐梯熱海)での歌会に参加したついでに、わざわざ足を延ばした。哀草果がやってくるというので、地元の須釜善勝と鈴木喜久夫の2人が同行した。甲子温泉にはバスで向かった。車内からは「那須岳はやや南より錆色聳そびえ、真西に朝日岳、その北肩に甲子山」を望むことができた。

 バスは泉が涌(わ)いている手前の高清水までで、3人はそこから20分ほど歩いたが、あまりの絶景に哀草果は言葉を失った。「源流に近い川の水はあくまで透明で、むらがる石は生々として見える。林は山毛欅けやきや栗が多く楓かえで等も交って鮮な紅葉をしている」。

 実景がよければ、絵を描くのにも難儀する。それと同じく「私もその景色を和歌につくろうとして、つひに一首も成就しなかった」と溜息ためいきをついた。

 また、哀草果は、甲子温泉についても、手際よくスケッチしている。「阿武隈川の源流が、甲子山の麓ふもとで2つに分かれて、いよいよ奥に入るところの、岩壁から涌出しているのである。旅館は2棟あるが、がらんとした殺風景な建物で、私達は谷を眼下にする二階の六畳間に入った。湯室は板橋を渡って川の向側にあった」。

 その到着した夜、哀草果は、母親と湯に浸かる「乳房のふくらみかけた處女」を見た。男女の別がなかったからだ。3人は茸汁きのこじるで酒を飲んで床についたが、哀草果は目がさえてならなかった。未明に起きて湯室に下って行くと、神秘的な光景に遭遇したのである。

 「湯には處女が一人抜手を切って泳いでをる。それは丁度プールを泳ぐときの形である。處女は私の来たのも知らず、安心して泳いでゐる。透明な湯に黎明の光がうごき、處女の肌はあくまで白い」。

 現在の甲子温泉は、当時とは違って、湯室に行く橋は鉄骨になった。建物も2棟から1棟になり、浴槽もその当時よりは一回り小さいという。わずかに哀草果の歌碑だけが目を惹くだけだ。

 撫ぶなの木に生ふる菌を照らしたる月甲子山におちゆかむとす

 月のかすかな明かりだけが、深い谷間の茸を照らしたが、白々とした「黎明れいめいの光」が射しこむと、美しい處女が湯で泳いでいたのである。

 甲子温泉は今でも秘湯そのものである。昭和27(1952)年7月、哀草果は、奥会津に足を踏み入れている。そこでつくった歌に、甲子温泉での思い出とイメージが重なるものがある。

 山宿の夜の爐辺ろへんにきく話題主人の妹は神隠しになる

 山の湯や宿は、どこまでも神秘性に満ちている。哀草果にとっても、もはや處女との再会がかなわず、神隠しに遭ったと考えるしかなかったはずだ。

 


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