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   甲子温泉(2)大町桂月
【5月31日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

 

大町桂月
 
大町桂月(おおまち・けいげつ)明治2(1869)年高知生まれ、大正14(1925)年没。国文学者、紀行家、歌人。「帝国文学」や「太陽」で健筆を振るう。紀行文数百編が「桂月全集」に収録されている。旅に出ると、酒を飲んで文を綴(つづ)り、酒仙と呼ばれた。

 

家族と憩う仙境の地
 
 大町桂月は、与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」を「理想は理想にして現実は現実也」(「太陽」)と攻撃した明治37(1904)年頃ごろから、アルコール中毒による奇行を繰り返すようになった。

 病気の恩師を訪ねては、会ってくれなかったからと駄々をこねる始末。わざわざ墨汁と筆を買ってきて、板塀に取り次ぎの者の悪口を大書した。勘違いして、隣の家の板塀に落書きをしたというのだから、お粗末過ぎる。家族や門人たちによって、大正7(1918)年7月7日には、強制的に病院に入れられた。
 

 桂月が白河の甲子温泉にやってきたのは、退院したばかりの8月上旬。まだまだ中毒の症状が残っていたが、それでも「阿武隈水源の仙境」という紀行文をまとめている。

 桂月の一家一族合わせて9人は、午後11時発の夜行で上野を発って、暁の4時半に白河駅に到着。駅前から馬に乗るつもりだったが、「前夜から注文せざれば弁ぜず」というので、すげなく断られてしまった。

 「さらば行ける處ところまでは」と人力車5台を手配し、妻をはじめとする女3人と幼児を乗せ、さらに荷物を積むと、桂月は長男、二男、三男、義理の甥(おい)を引き連れて出発した。

 桂月にとっての旅行とは、身体を鍛える運動と同じで、若い頃から、歩くのはたいした苦にはならなかった。「足が丈夫であったから、何の位歩けるか、足の強さを試してみたいとの考へと、又一つには、旅行に依て身体の健康を助けんとの考へで、矢鱈やたらに旅行したものである」(「旅行と文学」)。

 「橋なき川もありて、路悪しく、車行、人行よりもおそし。空曇りて、雨、をりをり到る」という悪条件でも、桂月には妻を気遣う余裕がある。「時鳥数声鳴く。歌の上のみ知りて、まだ実際に聞きたることなき妻に知らせばやと思ひて、その車待ちあはせ、又鳴くかと待てば、生憎鳴かず」。

 山が迫りくるあたりで、人力車も引き返した。そこからは全員で歩いた。雨がひどくなってきたが、子馬を連れた牝馬と出会って心が和んだ。「子馬をりをり立とまりて、母馬の乳を飲むさま、いと可憐也」。それを見て四男が笑い出すと、桂月もついつい吹きだしてしまったのだった。

 子を連れて我も越えゆく山道に子をつれてくる馬もありけり

 「もうすぐもうすぐ」と励ましながら、桂月らが甲子温泉に着いたのは、午後5時のこと。「温泉宿は唯々1軒なるが、凡そ1町の間、左右に2階3階相連なりて」という規模で、「数百人を容るるに足る」とまで書いている。そして、周囲の風景についても、「渓流を餘して、四面みな山。山の傾斜急にして、見渡す限り緑樹鬱蒼うっそうたり」と描写している。 

 甲子温泉には桂月は20日間にわたって逗留(とうりゅう)した。家族連れで、阿武隈川の源流にある瀧を探勝したり、単身案内人を雇って、甲子山や旭岳にも登っている。

 桂月は、断酒宣言をし、酒は出来るだけひかえていたはずだが、酒の香が恋しかったのか、「仙人にならむとしても成り切れぬ凡夫の浅ましき心を」詠んだ歌もつくっている。

 下界より酒樽のせて今日や来る明日やと馬の待たれぬる哉

 現在の甲子温泉の旅館は、その当時と変わらず大黒屋1軒だけだ。そこを後にしてから桂月は7年の命であった。それを知っていたかのように、暇があると旅行した。

 甲子温泉を「阿武隈川水源の仙境」と名づけた桂月は、「杖頭の銭あれば則ち飄然として行き、銭つきて帰る」(「一簑一笠」)をモットーにした。仙境を探しあてるには、歩くしかなかったのである。

 


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