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よいよい横町で
見た月は 見た月は
半分かけてた
朝の月 アノ朝の月
お空にぼんやり
出た月は 出た月は
夢みて寝ぼけた
昼の月 アノ昼の月
兎がお餅を
搗(つ)く月は 搗く月は
十五夜お月で
丸い月 アノ丸い月
その先の四つ角を曲がると、足湯がある商店街になるが、現在、弁当を売る店や電器店があるあたりに、以前は「新つた」があり、その近くに、雨情が子供2人と一緒に暮らしていた、湯本活版所の借家があったという。
さらに、次の四つ角を右に行くと温泉通りになる。「さばこの湯」と道路をはさんで 食堂と菓子店が並び、そこの路地を入ってすぐが、かつての柏屋の場所である。
雨情の息子である存彌さんが作成した年譜によると、大正6(1917)年に「湯本町の柏屋に移る」としか書いてない。柏屋は芸者置屋をしており、子供を連れて長期間世話になるのは、無理だったはずだ。
雨情は、柏屋の女主人明村まちに入れあげて借金し、どうしようもなくなって「新つた」の女将おかみである若松ユキさんに泣きついたというのが真相のようだ。雨情は、帳簿つけや、借金の取り立てばかりでなく、住み込み芸妓げいこのスカウトもした。
「雨情は腰が低く、礼に厚い人であった」(「野口雨情民謡童謡選」の古茂田信男解説文)といわれており、糊口ここうをしのぐために、与えられた仕事を几帳面きちょうめんにこなしたようだ。
ユキさんと雨情は、2人とも現在の北茨城市出身で同郷。鉱山主の娘であるユキさんは、大地主の跡取り息子の雨情と顔見知りでもあった。ユキさんの孫にあたる若松一利社長は「幼い子供も一緒だったので、見ていられなかったのでしょう」と語る。
雨情の放蕩ほうとう生活は、それ以前からであった。明治37(1904)年に父親が死ぬと家運が傾き、飲む、打つ、買うの道楽者となって借金がかさんだ。逃げるようにして樺太に渡ったり、北海道で新聞記者になったりしたが、いずれも中途半端。明治44(1911)年に帰郷して磯原漁業組合長に就任した時は、最後のチャンスでもあったが、酒色に溺(おぼ)れてしまい、大正4(1915)年5月、最初の妻とも離婚した。
女主人まちに、雨情が一方的に惚ほれたのが最初で、女の方も、汚い服装をした、風采ふうさいのあがらない男だと相手にしなかったのに、いつしか情が移ってしまい、離れられなくなっていたのではなかろうか。
雨情がいわき湯本を後にしたのは、大正7(1918)年10月のことである。20歳年下の中里つると結婚し、それを境に創作活動も旺盛になった。
「船頭小唄」も、翌年の夏に作曲家の中山晋平に披露。独特の節回しで雨情自身が吟じたのだった。舞台は利根川であっても、いわき湯本での思い出がまずあったのではないかと思う。
どうせ二人は
この世では
花の咲かない
枯れすすき
女主人まちと別れた雨情にも、後ろめたさが残ったはずだ。「船頭小唄」の歌にすることで、自らのつれなさを詫わびたのだろう。
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