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アナキストで、詩人の秋山清は、「異説・夢二論」のなかで、「夢二は社会主義の新聞に挿絵や短歌、川柳などを多数書いていた明治40年前後から、それ以後ほとんど死のときまで、緩急のちがいこそあれ、決して権力者や支配者を讃美したり、あるいはまたその彼らの立場に立って描いたり、うたったりしたことはなかった」と解説している。
平民社に出入りし、機関誌「直言」に、夢二のコマ絵「白衣の骸骨と女」が載ったのは、明治38(1905)年のことだ。白衣には赤十字のマークが付いており、反戦の風刺画である。
社会主義運動の渦中にあった夢二は、明治40(1907)年5月、読売新聞に入社。5月に「涼しき土地」取材のため福島県入りし、いわき湯本温泉に滞在している。24歳であった。
その取材が福島県を訪れた最初である。「涼しき土地」のなかで夢二は、景勝地の松島や水戸公園を酷評している。権威に盲従せずに、率直に感想を述べているのも夢二らしい。
また、夢二は、いわき湯本温泉に向かう途中、久の浜から四倉の一駅だけ人力車を利用したが、村に1人しかいない、車夫の手配に手間取った。家を訪ねてみると、田圃たんぼに出払っていて留守。乳飲み子を粗筵(あらむしろ)の上に投げ出して、女房が迎えに行ってくれたので、ようやく車上の人となった。
夢二の眼に、絵心がそそられる光景が飛び込んできたのは、その道中においてであった。
磯づたいの路みちが、山にかかったあたりでのことで、「山の麓にむさい茅屋がある、車は軒のうへを通るので家の中を見ると、病むだ女が床の上に坐って、可愛い女の兒が介抱してゐる所である。山青く、水清きこの山里にも、病む人はあるものか」。文章に添えられた挿絵からも、弱い者たちに向けられた優しい眼差まなざししが伝わってくる。
夢二が描いた女たちの多くがそうであったように、底辺に生きる者の悲しみを表現しているからだ。
終列車で四倉を発たった夢二は、その日のうちにいわき湯本温泉に着いた。「宿の車に迎へられて松柏館に投ず、近いころの大火事に、メヌキの場所は殆ど焼けて、旅館では湯本ホテル、松柏館の2軒が焼残ったばかりである」と書いており、大火から間もないことがうかがわれる。そして、「昔は三箱の御湯と云ったのだそうで」と前置きしながら、古歌を紹介している。
あかずして別れし人の住む里は三箱の御湯の山のあなたか
母と子の情愛に心動かされ、「この帯岸での最も美しい海辺である」と勿来の海岸に魅せられた夢二にとっては、いわき湯本温泉は、2つの思い出と結びつく、忘れがたい地となったはずだ。
夢二は、明治43(1910)年の大逆事件で、幸徳秋水らかけがえのない友を失った。翌年1月24日、処刑の報に接すると、友人を集めて通夜の真似事をした。「涼しき土地」の執筆時はまだ、嵐の前の静けさで、海はどこまでも凪ないでいたのである。
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