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   猫啼温泉 舟橋聖一
【6月28日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)
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舟橋 聖一
 
 舟橋聖一(ふなはし・せいいち)明治37(1904)年、東京市本所区横綱町生まれ、昭和51(1976)年没。作家。耽美的な官能派。古典に対する造詣(ぞうけい)も深く、「源氏物語」を現代語訳。「花の生涯」は代表的歴史小説である。

 

性から浮かぶ愛の姿
舟橋が小説の構想を練った石川町の猫啼温泉
 人の世の愛は、性を抜きには語れないらさないのが、舟橋聖一の小説なのである。

 石川町の猫啼温泉井筒屋が出てくる「ある女の遠景」が世に出たのは、昭和38(1963)年10月のことである。舟橋が取材にそこを訪れたのは、60年安保闘争が燃え上がっていたころであった。世情は「アンポハンタイ」で騒がしかったにもかかわらず、あえて背を向けるかのように、あくまでも個人の問題としての性をテーマにしている。

 井筒屋の溝井清一社長は「私の父登が、舟橋先生を磐城石川駅までお迎えに上がったのですが、マント姿でいらっしゃったのが今でも目に焼き付いているそうです。当時は離れがありましたから、そこで10日間以上も泊まっていかれたようです」と語る。
 

 「ある女の遠景」では、九谷継子は、以前、父方の叔母伊勢子を弄もてあそんだ男で、やり手の代議士である泉中と恋仲になる。騙だまされ続けて、深く傷ついた伊勢子の場合は、思いあまって死を選んだ。

 伊勢子同様、継子もズルズルと引きずられてしまったのは、暴力的な性に屈服したからだ。年端のいかない子供であった時に、泉中に無理に唇を奪われた。それが後になっても尾を引いたのである。

 継子は、伊勢子の死に興味を抱いた。そして、継子は、残された日記によって、伊勢子を追い回した、Nという男の存在を突き止めた。

 泉中に相手にされなかった時に、慰めてくれる男がいて、やはり情事に耽ふけっていた。一人の男に振り回されたわけではなかったのだ。

 伊勢子の最終の地となったのが、猫啼温線であった。和泉式部伝説に心惹かれたのだった。人妻でありながら、天皇の第三皇子為尊親王と恋に落ちた和泉式部は、為尊親王が亡くなると、同腹の弟帥の宮とも深い関係になった。帥の宮との間には子供までできたが、同じく若くして世を去った。「和泉式部日記」は、そうした奔放な恋の思い出が綴つづられている。

 その伝説によると、和泉式部は、石川町曲木の小和清水で生まれた。父母とは早く別れて、母の妹の叔母夫婦に育てられた。13歳の頃、叔父に手籠てごめにされてしまった。叔母の嫉妬でいられなくなり、猫啼温泉の付近に追いやられた。連れていた猫がケガをしたが、そこの温泉で傷口を洗って完治した。和泉式部は、その後都に上って、多情な歌人としての運命を辿たどったという。

 継子と叔母伊勢子、さらに、和泉式部は、したたかに女を生きた。井筒屋の湯で継子が不思議な体験をしたのは、伊勢子や和泉式部と同じ血が流れているからだろう。「継子の眼には浴みする式部の肌が見えて来た」り、「脱衣場との境のダイヤ硝子に、向こうから裸の女が歩いてきて、それがまざまざとシルエットになった。一瞬その女が、右手の肘に、まっ黒な子猫を抱いているように見えた」。伊勢子の声がしたような気もした。

 また、継子は、猫啼温泉で猫の飼い主である老婦人とも知り合いになった。神通力によって、「その人の背うしろに、遠い景色がでますんですよ」と話しかけられたが、未来を予測するのは拒否した。結末は破滅的であっても、歩けるだけ歩くしかなかったからだ。

 舟橋の耽美的な小説は、道徳的には許されない世界を描いているが、毒をあおる勇気も必要なのである。猫啼温泉で舟橋は、和泉式部に促されるようにして、継子や伊勢子を創作した。舟橋にとって美は、壊れやすいからこそ美なのである。

 


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