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   続・高湯温泉(上) 加藤楸邨
【11月29日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

 

 

加藤楸邨
 
  加藤楸邨(かとう・しゅうそん)明治38(1905)年東京市北千束生まれ、平成5(1993)年死去。俳人、国文学者。水原秋桜子に師事。中村草田男、石田波郷とともに人間探究派と呼ばれる。「句の形にしてしまうことを惜しむ気持が大切」と主張。心の底深く根ざした詩境を重視した。

 

写生を超えた人間探求
加藤楸邨が吾妻連峰に登った時に滞在した安達屋の露天ぶろ
 火の奥に牡丹ぼたん崩るるさまを見つ

 昭和20年の5月23日夜、加藤楸邨は、空襲によって身一つで罹災した。多くの日本人がそうであったように、焼夷しょうい弾が次々と落ちてくるなかを、彷徨さまよったのだった。

 焼け落ちるさまを、牡丹に譬たとえたことで、壮絶な光景を目の前にしながら、美として受け入れる審美眼によって、写生にとどまるのではなく、どのようにして、その現実を享受したかを問題にした。

 楸邨は、短詩型や季語の制約にさらされながらも、写すだけではなく、人間的要請を第一に考えた。だからこそ、そうした句を世に問うたのである。人間探求派と呼ばれたのは、そのためだ。
 

  戦後になって楸邨は、戦争協力者としての自らを厳しく罰した。昭和26年に、岩手県花巻在の高村光太郎を訪ねたのも、同じ境遇の身の上であったからだ。さらに、肋膜炎ろくまくえんを悪化させたことで、約4年間にわたる闘病生活を余儀なくされた。

 心身ともに健康を取り戻したのは、昭和29年になってからのこと。その年の7月、楸邨は、妻子と一緒に高湯温泉の安達屋に滞在し、霧深い吾妻連峰に登った。

 楸邨にとっても、忘れられない思い出であったようで、「吾妻山行」という紀行文を書いている。

 登山には、寡黙な若主人の故国広さんが同行し、「私達の荷物を山のように負って私の前になり後になり、時折高山植物の説明をしてくれた」のだった。

 体力に自信がなかった楸邨が、一歩一歩ながらも、先に進むことができたのは、国広さんの助けがあったからだ。そして、いつしか、引き返そうという気持ちも失せて、賽さいの河原が過ぎたあたりから、元気が湧いてきた。

 「山は深い切れこみに陥る。石楠しゃくなげが山全体を蔽おおって、薄桃の花が霧の中に滲にじみだしている。山が深くなるにつれて白石石楠が多くなる。私の最も好きな花だ。山育ちの知世子は平地を行くときよりも元気になって、花に顔を寄せては何か唄いだす。私の知らない唄だ。結婚前に覚えたものであろう。深い谷へ下りると渓流が石楠の間に音をたてている」

 妻知世子を気遣う楸邨の優しさは、白石石楠を愛でる優しさと同じである。それが多くの人の共感を生むのだろう。

 『まぼろしの鹿』に収録された「吾妻の夏」と題する句は、そのとき詠まれた。

 吾妻嶺がここに噴く湯ぞほととぎす

 声似たる母と子霧に呼びあふも

 子が呼べば朝焼けの山も母を呼ぶ

 楸邨が度々高湯温泉を訪れたのは、そこに住む人たちに愛着を抱いたからでもあった。宿の老主人、故菅野安治さんの人柄に惹かれて、炉辺で「つい話こんでしまった」こともあったという。
 四山雪解に叱咤しったとほるや山に老い

 頑固ではあるが、それでいて素朴な温かさが伝わってくる句である。

 安治さんの娘で、その当時10代後半であった、菅野京子さんは、「楸邨先生をご案内して、近くの裏山や、薬師堂に出かけましたが、乳色の濃い霧が立ちこめていたのを覚えています」と語る。また、朝寝坊だった京子さんのためにと、わざわざ色紙に句をしたためてくれた。

 鷦鷯みそさざいさめてにこにこめざめこよ

 大きな体をした楸邨は、抱擁力にあふれていたといわれるが、京子さんは、我が子のように可愛かわいがられ、東京都大田区北千束の自宅にまで招かれたこともあった。

 楸邨が愛した高湯温泉の自然や人情に触れることで、楸邨を理解する手がかりが得られるのではなかろうか。

 


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