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戦後になって楸邨は、戦争協力者としての自らを厳しく罰した。昭和26年に、岩手県花巻在の高村光太郎を訪ねたのも、同じ境遇の身の上であったからだ。さらに、肋膜炎ろくまくえんを悪化させたことで、約4年間にわたる闘病生活を余儀なくされた。
心身ともに健康を取り戻したのは、昭和29年になってからのこと。その年の7月、楸邨は、妻子と一緒に高湯温泉の安達屋に滞在し、霧深い吾妻連峰に登った。
楸邨にとっても、忘れられない思い出であったようで、「吾妻山行」という紀行文を書いている。
登山には、寡黙な若主人の故国広さんが同行し、「私達の荷物を山のように負って私の前になり後になり、時折高山植物の説明をしてくれた」のだった。
体力に自信がなかった楸邨が、一歩一歩ながらも、先に進むことができたのは、国広さんの助けがあったからだ。そして、いつしか、引き返そうという気持ちも失せて、賽さいの河原が過ぎたあたりから、元気が湧わいてきた。
「山は深い切れこみに陥る。石楠しゃくなげが山全体を蔽おおって、薄桃の花が霧の中に滲にじみだしている。山が深くなるにつれて白石石楠が多くなる。私の最も好きな花だ。山育ちの知世子は平地を行くときよりも元気になって、花に顔を寄せては何か唄いだす。私の知らない唄だ。結婚前に覚えたものであろう。深い谷へ下りると渓流が石楠の間に音をたてている」
妻知世子を気遣う楸邨の優しさは、白石石楠を愛めでる優しさと同じである。それが多くの人の共感を生むのだろう。
『まぼろしの鹿』に収録された「吾妻の夏」と題する句は、そのとき詠よまれた。
吾妻嶺がここに噴く湯ぞほととぎす
声似たる母と子霧に呼びあふも
子が呼べば朝焼けの山も母を呼ぶ
楸邨が度々高湯温泉を訪れたのは、そこに住む人たちに愛着を抱いたからでもあった。宿の老主人、故菅野安治さんの人柄に惹ひかれて、炉辺で「つい話こんでしまった」こともあったという。
四山雪解に叱咤しったとほるや山に老い
頑固ではあるが、それでいて素朴な温かさが伝わってくる句である。
安治さんの娘で、その当時10代後半であった、菅野京子さんは、「楸邨先生をご案内して、近くの裏山や、薬師堂に出かけましたが、乳色の濃い霧が立ちこめていたのを覚えています」と語る。また、朝寝坊だった京子さんのためにと、わざわざ色紙に句をしたためてくれた。
鷦鷯みそさざいさめてにこにこめざめこよ
大きな体をした楸邨は、抱擁力にあふれていたといわれるが、京子さんは、我わが子のように可愛かわいがられ、東京都大田区北千束の自宅にまで招かれたこともあった。
楸邨が愛した高湯温泉の自然や人情に触れることで、楸邨を理解する手がかりが得られるのではなかろうか。
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