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椎野さんは、飯坂温泉の鯖湖(さばこ)の湯で産湯に浸り、源義経に仕えた佐藤継信、忠信一族の末裔(まつえい)だという。鏡花の宿泊先は遊郭ではなかったか、と言っておられるが、大いに参考になった。
紀行文によれば、鏡花は東北本線の伊達駅で降り、人力車を拾った。車夫の毛むくじゃらの親父(おやじ)が、よれよれの半纏(はんてん)に似ないで威勢よくひょいと出て、バスケットを引き取ってくれた。
ところが空気が足りない。親父は急いでタイヤに空気を入れる。「どこから繰り出したか―まさか臍(へそ)ではあるまい―蛙(かえる)の胞衣(えな)のような管をずるりと伸ばして護謨輪(ごむわ)に附着(くっつ)けたかと思うと握拳で操って、ぶツぶツと風を入れる。ぶッぶッ……しゅッしゅッと、一寸(ちょっと)手間が取れる」
鏡花はそれでも蹴(け)り込みへ片足をかけるのではなく、悠然とやり過ごした。湯治客の体面を気にしたあたりは、やはり粋である。
飯坂温泉までは、約四キロの距離で30分ほどかかった。鏡花の旅行者としての目は、蕾(つぼ)んだ菖蒲杜若(あやめかきつばた)が、路傍(みちばた)に咲こうとしているのを見落とさなかった。
「さきに、伊達の停車場を出て間もなく踏切を越して、しばらくして、12軒、村の小家の前に、細長い流に一際(ひときわ)茂って丈ののびたのがあって、すっと露を上げて薄手ながら、ふっくりとした真新しい蕾(つぼみ)を1つ見た。白襟(しろえり)の女の、後姿を斜に、髷(まげ)の紫の切を、ちらりと床(ゆか)しく見たような思いがした」
そして、人力車はいつしか湯煙の上がる温泉街に到着した。鏡花は「五月朔日(ついたち)の事也。其(その)夜、飯坂に宿る。温泉あれば土座に筵(むしろ)を敷いて、あやしき貧家なり。灯もなければ、いろりの火影に寝所(しんじょ)を設けて」という松尾芭蕉の「奥の細道」の一節を引きながら「三百有余年を経て、あまり変りは無さそうである」との感想を記している。
摺上川(すりかみがわ)を挟んで、飯坂と湯野の2つを隔てている十綱橋(とづなばし)は、藤(ふじ)で橋を架けたという伝説がある。鏡花は湯野側の「藤の花なる滝」に感嘆したこともあって、ことさら興味をそそられた。
飯坂側に橋を渡り、摺上川に沿って若葉町の遊郭街に出た。目指す明山閣はその近くであった。椎野さんの遊郭説も、的はずれではないようだ。明山閣で鏡花は、長火鉢に頬杖(ほおづえ)をつきながら、川を隔てた街道を行き交う人を眺めた。
「山の根について往来する人通りが、衣(き)ものの色、姿容(なりかたち)は、はっきりして、顔の朧気(おぼろげ)て程度でよく見える」。浴室の湯気を透かせた窓からは、それが山谷の蜃気楼(しんきろう)に見えたのだった。
松葉を女の腕に例えたくだりも鏡花らしい。「浴槽に浮いて、潜って、湯の揺るがままに舞う。腕へ来る、乳へ来る。払えば馳(はし)って、またスッと寄る。ああ女の雪の二の腕だと、松葉が命の黥(いれずみ)をしよう、指には青い玉となろう。私は酒を思って、ただ杉の葉の刺青(ほりもの)した」
鏡花にとっての飯坂温泉は、野趣の一言に尽きる。すでにカフェ街もあったはずだが、鏡花の飯坂温泉とは、山の蜃気楼であり、ヒラリと舞い降りた松の葉なのである。
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