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会津士魂をテーマにした歴史作家だとばかり思い込んでいたので、森田のことを取り上げたのにはビックリした。一読してみて、日本学生同盟の主要メンバーだった宮崎正弘に頼まれて執筆したのを知った。
私の世代では一握りだったろうが、森田に連なる者たちもいた。福島県にも、日学同傘下の福島県高校生協議会というのがあり、いくつかの高校にメンバーがいた。
論争ジャーナルや日本学生新聞が回し読みされ、そこの書き手の一人に森田必勝の名前があったのを、今でも鮮明に覚えている。
宮崎は、中村とは二十数年前からの知り合いで、忘年会の会津東山温泉行きは連続六回を数えたこともあったという。宿泊先の原瀧には、2人だけではなく、同好の士がはせ参じた。宮崎は中村の「鬼官兵衛列風録」の解説文でその当時のことを回想している。
「常連はほかに秋田大学教授の錦仁、軍事史家の佐々木俊夫、地元の史家宮崎十三八という顔ぶれが多かった。当然会津の歴史談義は夜半に及び、酒量も進む。会津若松の栄川や会津ほまれといった清流のような銘酒は、酔っても風呂から上がればまた呑のめる」
三島の脇役に甘んじていた森田は、中村によって主役となったのだ。生身の若者らしい息づかいの一つ一つが新鮮であった。森田が敬愛していたのは、新選組の土方歳三で、「土方は幕府方だが、男として、絶えず権力に反発し、最後まで新政府に叛旗はんきをひるがえした挑戦の態度がいい」と語っていたという。中村と一脈通じるものがあるのではなかろうか。さらに、中村からすれば、三島と森田の行動は、会津武士の血脈を受け継ぐ作法にのっとっていたのである。
会津藩校日新館和学所師範の野矢常方のやつねかたは、67歳の高齢であったにもかかわらず、鶴ケ城に殺到した西軍に立ち向かった。その時の歌は、
弓矢とる身にこそ知らめ時ありて散るを盛りの山桜花
三島の辞世の二首も、死出の旅に立つ者として、ふさわしい言葉が使われている。
益荒男ますらおがたばさむ太刀の鞘さや鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜
散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と咲く小夜嵐さよあらし
森田においてもそれは同じである。
今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは
憂国忌の29年祭には中村が宮崎正弘と共同で講演をしている。歴史の敗者として、顧みられなかった会津藩の愚直な者たち。それを小説にした作家は、三島や森田の行動を他人事に思えなかったのだろう。
忘年会で、中村らが会津に2泊する場合でも、1泊目は決まって原瀧であったという。和風の落ち着いたたたずまいと、湯川のせせらぎが、往時の会津を語るのには、ふさわしかったからだろう。
平成12(2000)年5月に世に出た「烈士と呼ばれる男」は、森田を偶像視しようしたのではなく、あくまでも等身大の若者として描いた。軽はずみな行動に、かえって好感が持てた。
三島、森田の死から35年が過ぎた。原瀧に集った者たちが悲憤慷慨ひふんこうがいしたのも昔のこととなってしまったが、会津には、日本人を奮い立たせる何かがある。
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