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蘇峰は、静子夫人と秘書を伴い、5月4日夜七時上野発で東京を離れており、弘前に立ち寄ってから若松入りした。
蘇峰の一行は、7日夜11時すぎ弘前発の奥羽線で南下。新津から磐越西線に乗り換えた。阿賀川を車窓から眺めながらの旅であったが、午後一時に猪苗代駅に降り立った。
途中の若松駅では、代議士の八田宗吉、郷土史家の五十嵐竹雄らの歓迎委員が乗り込んで、一緒に会津藩の祖・保科正之公を祭る土津神社に詣でた。
また、蘇峰の一行は、白虎隊の奮戦の地である戸ノ口原を訪れたほか、飯盛山では自刃した少年たちの墓に手を合わせた。
強行軍であったために、東山に着くころには、とっぷりと日も暮れていたが、蘇峰は30年前にも向瀧に滞在したことがあり、同行していた静子夫人に向かって「昔泊まったのはここだったよ」と懐かしそうに語ったのだった。そして、新潟産の大好きな蟹かにと地産のヤマメ、さらに青森より持参のリンゴで夕食を終え、早く就眠したという。
翌日は静子夫人が午前四時ごろには目を醒さまし、火をおこして部屋を暖めた。蘇峰は5時ごろに起きて、原稿用紙に向かった。毎朝暗いうちに新聞に連載する1回分12、3枚を書き上げるのが日課となっていたからだ。
講演に先立って、蘇峰らは院内の松平家の御廟ごびょうに拝したほか、鶴ケ城の天守閣台にも登った。特に、お城では会津高女生の薙刀なぎなた演武を見学した。
注目の講演が行われたのは午後1時からで、壇上に立った蘇峰は、千数百人の聴衆を前に、熱弁を振るった。
藩祖の保科正之は、勤皇であって、三百余藩のいずれにも劣るところはなかった。文久から慶応にかけては、足かけ7年の間、松平容保が京都守護職となり、一藩挙げて奉仕した。孝明天皇からの御宸翰(ごしんかん)や御下賜品ごかしひんなどもあり、当時の大名のなかで最も信頼されていた。蘇峰はそうした事実を踏まえて、「会津は朝敵にあらず」という主張をしたのである。
蘇峰にとってもかなり力瘤ちからこぶが入った講演だったようで、向瀧に戻った夜に腸の具合が悪くなって夕食も口にしなかった。
それでも、10日の朝は、地元滝沢特産の白餅(もち)と牛乳が届けられ、蘇峰も軽く朝食をとり、県立工業高校見学や勝常寺を参拝する当日の日程を無事こなし、さらに一泊して、11日早朝には東山を発(た)った。
「近世日本国民史」百巻が完結したのは、昭和27(1952)年4月20日のことであった。34年の歳月が費やされた。三十数万部が完売したといわれ、歴史の見方に大きな影響力を及ぼしている。
蘇峰が最近になって見直されてきているのは、綿密な資料に基づいて公平な立場から記述しているからだ。
東山温泉「向瀧」での蘇峰は、歴史家としての決断を迫られていたように思う。会津藩を逆賊にしなかったことでも、蘇峰の公平な歴史観は立証済みである。(次回は29日に掲載します)
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