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それだけに、夢二が宣伝を買って出てくれたかのようであった。
新瀧は、不動瀧、千代瀧と一緒の会社になって、東山温泉の活性化に取り組んでいる。これから夢二が東山温泉全体のセールスポイントになってくるはずだ。
夢二は明治、大正、昭和の3度にわたって新瀧に逗留(とうりゅう)している。
最初に夢二が訪れたのは、明治44(1911)年3月である。その年の1月に、幸徳秋水ら旧知の人たちが、大逆事件の被告として処刑されたことと無縁ではない。若き日の夢二は、社会主義者であった。一画学生であっただけでなく、街頭で平民新聞の立ち売りもしている。傷心を癒やすべく東京を離れたのである。
夢二の絵は「美人画ではなく、女絵(おんなえ)であった」と評したのは、詩人の秋山清である。特に、初期の作品には向こうをむいて顔を見せないものが多かった。生活する女の人を好んで描いた時期があったのだ。弱い者を思いやる気持ちが、女性を愛玩物にするのをためらわせたのだろう。
後ろ姿は、男女2人寄り添ってという作品もあるが、未来に希望を持てない、いじらしい民衆の小さな肩でしかなかった。
2度目の大正10(1921)年8月は、1カ月間にわたって逗留した。その時の作とみられる自画像は、襟巻きに外套がいとう姿の、夢二とおぼしき男が風のなかを歩いている。さすらいの旅人としてのやるせなさが表現されており、短歌も添えられている。
人問はば風とこたえむ陸奥の道はしらじらすすきかやはら
新瀧の半玉はんぎょくであったトンボとの淡い恋は、昭和5(1930)年6月のことだと思われる。高田橋近くの大川で夢二が待っていたのに、お目当てのトンボは現れなかった、というエピソードも残っている。
トンボの母親は旅館の住み込みの芸妓であり、母と子の暮らしぶりを目にして、ある種の共感を覚えたのではなかろうか。また、モデルがいないと絵筆を握らなかったという夢二は、会津で何人かのモデルを見つけたのは明らかで、トンボもそのうちの一人だったのだろう。
東山温泉での日々は、夢二にとってかけがえのない思い出であったようで、亡くなる寸前まで、「会津百景」を描いて、新瀧に寄贈したいと語っていたという。
昭和9年9月に、夢二は信州の富士見高原療養所で死去したが、最期を看取(みと)った所長の正木不如丘(ふじょきゅう)は、約束を果たせなかった夢二が、どれほど気にかけていたかを伝えるために、夢二没後にわざわざ新瀧を訪れている。
夢二に会いたければ、東山の温泉街を歩けばいい。会津夢二会が建てた「宵待草」の碑が、新瀧橋の近くにある。雨降り瀧や、湯川をはさんでの旅館のたたずまいは、往時を偲(しの)ばせる風情がある。
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