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   飯坂温泉(2) 正岡子規
【10月13日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

正岡子規
 
  正岡子規(まさおか・しき) 慶応3(1867)年松山市生まれ、明治35(1902)年没。俳人、歌人、散文家。俳句革新運動を展開。空想や理想に対し、写実の優位性を説いた。随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」のほか、紀行文も数多く残している。

 

下駄ばきで来た東北
飯坂温泉の鯖湖湯に立つ正岡子規が詠んだ「夕立や人声こもる温泉のけむり」の句碑
 正岡子規は明治26(1893)年7月から8月にかけて東北を回った。そこでの見聞を書き記した「はて知らずの記」にも、飯坂温泉は登場する。

 子規は、上野停車場から北を目指して出発するに当たり「みちのくへ涼みに行くや下駄げたはいて」という一句を捻ひねっている。

 松尾芭蕉が奥の細道を歩いたころとは違って、鉄道のおかげで近くなった。子規はそれすらも俳句にしてしまったのである。
 

 子規は、洒落(しゃれ)の通じる男であり、気負うことなく、見知らぬ土地に足を踏み入れたのである。野ざらしというのではなく、病める身にもかかわらず、悲壮感はまったく感じられない。

 「ままよ浮世のうき旅に行く手の定まりたるもの幾人かある。山あれば足あり金あれば車あり。脚力盡くる時山更に好し財布軽き時却(かえ)って羽が生えて仙人になるまじきものにもあらず」

 野球の打者、走者、飛球、直球などは子規の訳語であり、名キャッチャーであったといわれる。長い病気と鼻突き合わせて暮らす以前は、スポーツマンのフレッシュな若者であった。

 ペンネームにしても、「子規」がホトトギスとも読むことから名付けた。その旅の4年前、22歳のときに子規は吐血した。口のなかが赤くて、血を吐いて鳴くのがホトトギスであるといわれるので、ちゃっかり鳥名を拝借したのだ。業病ごうびょうに負けてはいなかった。

 東北本線で北上してきた子規は、二本松で汽車に乗り直し、7月24日に福島に到着。信夫山を散策した。翌日に信夫文知摺(もちずり)石を見ようと、文知摺観音まで足を延ばした。芭蕉がわざわざ訪ねているその石は、表面に愛いとしい人の姿が現れるという伝説がある。

 しかし、あまりの暑さに子規は、それどころではなく、「涼しさの昔をかたれ荵しのぶずり」というのが精いっぱいであった。

 帰り道も炎熱であったが、人力車で飯坂温泉を目指すと、今度は肌寒くなってきた。「涼極つて冷。肌膚粟(きふあわ)を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらはらと降り出でたり。浴場は2箇所あり雑踏芋を洗ふに異ならず」と書いている。

 そのときの「夕立や人声こもる温泉のけむり」の句碑が飯坂温泉の鯖湖さばこ湯の側そばに立っている。たまたま私も、子規にならって、その湯船に浸かってみた。それほど広くない場所に肌を寄せ合っていると、自然と往時が偲(しの)ばれてならなかった。「人声こもる」というのは、大勢の人が入っていたからではなかろうか。

 摺上川(すりかみがわ)に架かる十綱橋とづなばしについては、「ここにかけたる橋を十綱の橋と名づけて昔は綱を繰りて渡すこと籠(かご)の渡しの如ごとくなりけん」と古いにしえの世に思いを馳(は)せ、「みちのくのとつなの橋にくる綱のたえずも人にいひわたるかな」という千載集(せんざいしゅう)の歌を口ずさみ、自らも「釣り橋に乱れて涼し雨のあし」という句を残している。また、飯坂側から向こう岸の湯野側に立ち並ぶ三層楼の間から一条の滝が走り落ちるのを眺めて、「涼しさや滝ほとばしる家のあひ」。疲れて昼寝をし、夢のなかで一句得たのが「涼しさや羽生えそうな脇の下」である。よほど清々すがすがしかったのだろう。

 国内だけでなく、アメリカに渡ってみたい、という越後生まれの若者が下働きをしていたりで、話し相手にも困らなかった。「平蔵にあめりか語る涼みかな」

 歩く人とも評される子規は、14、5歳のころから暇があると旅に出るのを常とした。そして、どこの旅先でもそうであったように、自然体のまま飯坂温泉を訪れ、爽さわやかな句を置き土産にして去って行ったのである。後ろ姿に悲壮感はなく、足取りも軽やかであったろう。子規26歳のことである。

 


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