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   飯坂温泉(3) 竹久夢二
【10月20日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

竹久夢二
 
  竹久夢二(たけひさ・ゆめじ) 明治17(1884)年岡山県邑久郡本庄村生まれ、昭和9(1934)年没。画家、詩人、歌人。挿絵画家から出発し、主に「女絵(おんなえ)」を描き、”大正の歌麿”と評された。広く愛唱されている抒情(じょじょう)詩に「宵待草」がある。

 

幼妻を思い詩歌残す
川岸の風景を水もに残す摺上川。夢二は飯坂温泉でお葉への思いを綴った短歌や詩を残した
 竹久夢二は、大正10(1921)年10月11日から福島を中心に、約1カ月間にわたって県内各地を回っている。飯坂温泉で夢二は、「幼妻」であった、お葉ようへの思いを綴つづった短歌や詩を残したのだった。

 いつ合流したかはっきりしないが、18日に東京に帰るお葉を郡山駅で見送っていることから、それまでは一緒であったようだ。

 夢二は、お葉と離れ離れになったのがよほどこたえたのか、

 三十路みそじすぎ
 はじめて恋をする人の
 やうに哀かなしく
 きみと別るる

という歌を詠んでいる。
 

 夢二が飯坂温泉に出掛けたのは、27日になってからである。31日付のお葉宛(あて)の手紙では、切ない思いを切々と書いている。

 「今日は飯坂へきた。ここはおまえとちこときたところ。お菓子をかひにいってちこが泣き顔をして走ってかへってきたことをおもって淋さびしい。エンガワへ落ちてきた葉をおくる。からだを丈夫にしておくれ」

 夢二は、この年の1月に秋田に出向いている。そこでお葉の母や兄と対面し、2人のことの了解を取りつけた。二男の不二彦もわざわざ呼び寄せている。その帰り道に、飯坂温泉に立ち寄ったのではなかろうか。

 夢二がお葉と府下中渋谷宇田川857に世帯を持ったのは、その年の8月であった。福島にやってくる以前に、2人は夫婦同然の間柄になっていた。

 作詞家で、夢二研究家として知られる、郡山市在住の内海久二さん(79)の「お葉恋唄」には、

 お葉十八 丸髷まるまげ
 赤い手結てがらの いじらしさ
 秋田なまりでささやいた
 可愛かわいい言葉が忘らりょか

という一節がある。

 夢二は明治40年1月に、2歳上の岸たまきと結婚している。放蕩ほうとうな生活をしながらも、夢二の嫉妬しっと心は人一倍であった。夫婦間の争いが絶えず、長男がいたのに、明治42年5月に協議離婚をした。

 しかし、その後も2人の男の子が生まれるなど、たまきとの関係が清算されたわけではなかった。愛称「ちこ」と呼ばれた不二彦も、別れてからの子供だ。

 たまきとの間が決定的になったのは、女子美の学生であった笠井彦乃と、夢二が恋に落ちたからだ。お互いを「山」「川」と呼び交わした間柄であったが、彦乃の病気と、相手の親の反対で引き裂かれてしまった。そして、彦乃は大正9年1月16日に没した。

 傷心の夢二を慰めてくれたのがお葉であった。本郷の菊富士ホテルに下宿していて、大正8年の春にモデルに使ったことで知り合った。

 貧しい母子家庭で育ち、13、4歳から春画しゅんがの伊藤静雨のモデルをしていた。本名は永井兼代で、お葉という呼び名も夢二が付けた。

 夢二と一緒に暮らすようになってからお葉は妊娠した。だが、死産であったために、お葉は打ちひしがれてしまう。妻として生きようとしたのもつかの間、それまで以上に多情な血が騒いで、夢二を翻弄ほんろうした。

 夢二にとってお葉は、傷つけ合う相手でもあった。31日付の手紙の末尾には、恋の行方を暗示するかのような詩を付け加えている。

 みちのくの
 いでゆのさとの
 片時雨かたしぐれ
 摺上川すりかみがわ
 見おろせば
 落葉をのせて
 水のゆく
 水は水ゆゑ 流るゝに
 わがかなしまず
 欄による

 夢二がお葉との破局を予想していたかのようだ。飯坂温泉でも、夢二は悲恋悲嘆の人であった。

 


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