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   飯坂温泉(4) 若山牧水
【10月27日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)
▽4

若山牧水
 
 若山牧水(わかやま・ぼくすい) 明治18(1885)年宮崎県東臼杵郡東郷町生まれ、昭和3(1928)年没。旅と酒と恋の歌人。「幾山河」「白鳥は」「白玉の」の歌は広く愛唱されている。孤独や寂しさを歌いながらも、声調は美しくのびやかだ。

 

野ざらしの旅の途上
若山牧水が「とほし」と詠んだ飯坂温泉。牧水は大正5年に訪れている
 若山牧水の歌には、青春の思い出と重なる甘ずっぱさがある。岩波文庫「若山牧水歌集」を私が手に取って読んだのは、もう40年近く前になる。

 牧水というと激しい恋の歌であり、その幾つかを口ずさんだが、飯坂温泉を詠んだ歌からも大いに刺激を受けた。旅する者の寂しさが込められているからだ。

 「岩代瀬上町より飯坂温泉へ」という小見出しが付いている。 
 

  花ぐもり晝ひるは闌けたれ道
 芝につゆの残りて飯坂とほし
 たわたわに落つる春田の
 あまり水道辺みずみちべに続き飯坂とほし
 菜ばたけのすゑの低山や
 ますそにそれとは見ゆれ
 飯坂とほし

 末尾が「飯坂とほし」で終わっている歌は、それ以外にも二首ある。それほど遠くない距離であるのに、ためらいが先に立ったのは、心身ともに疲れ果てていたからだろう。

 漂泊の旅人であった牧水は、

 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

という愛唱歌を残している。旅する者として、漂泊の思いに突き動かされた歌人は、若き日に失恋の痛手を負った。明治40(1907)年春に園田小枝子と知り合い、急速に2人は接近する。この年の6月、暑中休暇で宮崎県に帰省する途中、1人で中国地方を回り、そこで詠んだのだった。

 小枝子との恋の破綻はたんが若者の感傷をくすぐり、恋愛の切なさを歌い上げたことで、近作を加えた第三歌集「別離」が明治43年4月に世に出るや、牧水は一躍注目されるようになった。

 しかし、牧水は小枝子と別れて以後も、歌人であり続けた。良き理解者であった太田喜志子と明治45年5月に結婚。生活は楽ではなかったが、自らに鞭むち打つように旅の人となった。

 飯坂温泉にやってきた大正5年は、3月14日に上野を発(た)ってから、5月1日に帰宅するまで、約1カ月半にわたって東北各地を回った。最初はすぐに帰るつもりだったが、津軽が気に入ったようで、1カ月間そこに滞在した。帰りは、秋田に1泊してから、桜が盛りの福島にも4泊し、わざわざ飯坂温泉にも立ち寄った。

 福島でも牧水は歌をつくっている。

 つばくらめちちと飛び交ひ阿武隈の岸の桃の花いま盛りなり

 牧水門下で、研究家としても著名な大悟法利雄も、「幾山河越えさり行かば・若山牧水の人と歌」では、「朝の歌」の代表的な歌として挙げている。情景を目に浮かべることができるが、旅人特有の憂愁さは伝わってこない。「飯坂温泉雑詠」では、

 磯節をきけばかなしも陸奥の山の奥の唄をきけば悲しも

というのが心に沁みるが、「飯坂とほし」のような寂しさはない。

 牧水はよほど東北旅行で疲れたのか、帰宅の翌日にはほとんど会話することなく、家族の者たちを、妻の実家の信州に送り出した。いくばくかの収入が得られたので、罪滅ぼしにということもあったろうが、牧水は風邪がもとで、すぐに床についてしまい、紀行文の「その後」では、「寝床、便所、長火鉢、机、縁側などの室内旅行」と自嘲じちょうしている。

 牧水もまた、松尾芭蕉と同じように、野ざらしの旅に出たのである。旅の途中で命が果てるかもしれないのだ。牧水は、明治43年9月、小枝子とのことで疲労困憊こんぱいし、小諸に身を寄せて静養したあたりから、健康は蝕むしばまれており、牧水の「楽しい寂しい長途の旅」はそこから始まった。

 牧水は飯坂温泉で愛の歌をつくらなかったが、野ざらしの歌を詠んだのである。

 


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