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花ぐもり晝ひるは闌たけたれ道
芝につゆの残りて飯坂とほし
たわたわに落つる春田の
あまり水道辺みずみちべに続き飯坂とほし
菜ばたけのすゑの低山や
ますそにそれとは見ゆれ
飯坂とほし
末尾が「飯坂とほし」で終わっている歌は、それ以外にも二首ある。それほど遠くない距離であるのに、ためらいが先に立ったのは、心身ともに疲れ果てていたからだろう。
漂泊の旅人であった牧水は、
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
という愛唱歌を残している。旅する者として、漂泊の思いに突き動かされた歌人は、若き日に失恋の痛手を負った。明治40(1907)年春に園田小枝子と知り合い、急速に2人は接近する。この年の6月、暑中休暇で宮崎県に帰省する途中、1人で中国地方を回り、そこで詠んだのだった。
小枝子との恋の破綻はたんが若者の感傷をくすぐり、恋愛の切なさを歌い上げたことで、近作を加えた第三歌集「別離」が明治43年4月に世に出るや、牧水は一躍注目されるようになった。
しかし、牧水は小枝子と別れて以後も、歌人であり続けた。良き理解者であった太田喜志子と明治45年5月に結婚。生活は楽ではなかったが、自らに鞭むち打つように旅の人となった。
飯坂温泉にやってきた大正5年は、3月14日に上野を発(た)ってから、5月1日に帰宅するまで、約1カ月半にわたって東北各地を回った。最初はすぐに帰るつもりだったが、津軽が気に入ったようで、1カ月間そこに滞在した。帰りは、秋田に1泊してから、桜が盛りの福島にも4泊し、わざわざ飯坂温泉にも立ち寄った。
福島でも牧水は歌をつくっている。
つばくらめちちと飛び交ひ阿武隈の岸の桃の花いま盛りなり
牧水門下で、研究家としても著名な大悟法利雄も、「幾山河越えさり行かば・若山牧水の人と歌」では、「朝の歌」の代表的な歌として挙げている。情景を目に浮かべることができるが、旅人特有の憂愁さは伝わってこない。「飯坂温泉雑詠」では、
磯節をきけばかなしも陸奥の山の奥の唄をきけば悲しも
というのが心に沁しみるが、「飯坂とほし」のような寂しさはない。
牧水はよほど東北旅行で疲れたのか、帰宅の翌日にはほとんど会話することなく、家族の者たちを、妻の実家の信州に送り出した。いくばくかの収入が得られたので、罪滅ぼしにということもあったろうが、牧水は風邪がもとで、すぐに床についてしまい、紀行文の「その後」では、「寝床、便所、長火鉢、机、縁側などの室内旅行」と自嘲じちょうしている。
牧水もまた、松尾芭蕉と同じように、野ざらしの旅に出たのである。旅の途中で命が果てるかもしれないのだ。牧水は、明治43年9月、小枝子とのことで疲労困憊こんぱいし、小諸に身を寄せて静養したあたりから、健康は蝕むしばまれており、牧水の「楽しい寂しい長途の旅」はそこから始まった。
牧水は飯坂温泉で愛の歌をつくらなかったが、野ざらしの歌を詠んだのである。
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