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「白雲上の詩人坊ちゃん」であった西條は、一転して厳しい現実に直面することになった。必死になって尋ね歩いた西條は、飯坂温泉でようやく兄を見つけたのである。その実話に基づいて小説も描かれている。主人公の楠田靖三が西條であることは明らかだ。
楠田家の店の支配人川口も、その件には一枚噛かんでいた。川口が仙台までの切符を買ったことが判明した。靖三もまた、何かつかめるのではないか、という気持ちから東北本線に飛び乗って仙台に出掛けたが、結局は徒労に終わった。
しかたなく、靖三は帰り道に「信夫文知摺もちずり観世音」の伝説を思い出して、福島駅へ降り立った。文知摺石を麦の青葉で摺すると相思の人の面影が現れる、という伝説にひかれたからだ。
その伝説の石を見物し、靖三は何気なく車夫に向かい、尋ね人があってわざわざやってきたことを話し、兄の写真を取り出して見せた。すると、記憶があるという。たまたまそこに居合せた、背のすらりとした面長な娘が、飯坂温泉の翡翠ひすい館にいると教えてくれた。
飯坂温泉で靖三は、兄の連れの女である歌子を探しあてた。あまりにも若いのに、戸惑ってしまった。同時に、自分が恋した、フランス人の人妻ミシュリーヌと瓜うりふたつに思えてならなかった。
それだけに、2人は恋人同士のように、「鵬おおとり公園」を散歩した。桑畑の間を歩いて、やがて広々とした平地に辿たどり着いたのである。「城あとの石らしいものは見えなかった。ただ眺望はさすがによく、飯坂湯野の2つの町の湯宿の白壁、摺上川すりかみがわの奔流などが、細雨の中に絵のように見渡された」
歌子の唇を見て、勝手にミシュリーヌの記憶が胸によみがえってくるのであった。
さらに、靖三は、文知摺石の場所で声を掛けてくれた幹子との悲しい別れも経験した。長年連れ添ってきた男と、穴原温泉に行く途中の屏風びょうぶ岩で身を投げた。にもかかわらず、幹子は、靖三にあてた遺書のなかで、「いとしゅうございます。わたしはこの哀れな一すじの恋を抱いて死に参ります」と本心を吐露したのである。
幹子のあまりにも衝撃的な事件は、靖三と歌子を急接近させるかに思われた。お互いの知り合いであったことと、死を厭いとわない情熱に圧倒されたからだ。
しかし、歌子はやはり兄の方を選ぶしかなかった。兄と一緒に飯坂温泉を逃げ出したのである。靖三も一時いっときは後を追ったが、途中で断念した。兄がもっとも大事にしていた歌子の心を奪ってしまったことで、「愛人の骸骨がいこつを抱いて旅を行く哀れなる兄に静安を与えよ」とあきらめる以外になかった。
西條がその小説で書きたかったのは、愛さずにはいられない、人の世のはかなさではなかったろうか。飯坂温泉は、その夢を紡ぐことができた温泉地だった。
現在の飯坂温泉のたたずまいは、その当時と大きく様変わりをした。
だが、摺上川の瀬音だけは変わらない。耳を澄ますと歌子や幹子のはずんだ声や、つぶやきが聞こえてくるような気がしてならない。
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