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往時の大浴場跡は、わずかに足湯として、観光客に利用されている程度だ。山形屋の場所は、現在のますやの辺りだったという。
茅葺かやぶき総2階建ての旅館に囲まれて、示現寺所有のお湯の源泉があり、大浴場はそのすぐ近く。お湯がどんどん湧いてくるかけ流しであった。それぞれの旅館とは、渡り廊下で結ばれていた。
周囲が暗くなり、灯がともる時間になってきて、「サァ阿吉嬶おきちかか様が歌い始めた」というので、大浴場に黒山の人だかりができた。それが小説の書き出しである。「蟇がまのように肥(ふと)った筋骨逞たくましい体を敷石の上に踏反し、蝦えびの如ごとく温気に赤らむ丸い肩を揺動かして、胸の辺に缶詰の殻を柄杓ひしゃくに代えて湯を注けながら、歌っているのが噂うわさの高い阿吉である」
主人公の阿吉は、次々と美声を披露した。馬方節がそのなかでも十八番おはこで、集まってきた者たちもうっとりと聞き惚ほれる。
阿吉は、熱塩温泉から遠くない、黒川の豪農の生まれ。爺じい様から四歳駒一頭をもらって、駄賃取りを始めた。
自慢の喉のどを聞かせて歩こうと、馬追いになった。喧嘩けんかも強かったが、阿吉にも転機がやってきた。会津藩の名誉ある門閥に生まれた朽岩忠雄と出会ったからだ。
忠雄は、若松城の戦いで、後顧に憂いがないようにと、妻と子を手にかけてしまった。生き永らえて、隣村の金屋村で手習いの師匠になったが、各地に学校ができるようになって失職。わずかな金で茶店を開き、そこで阿吉と知り合って、黒川に居を構えた。
忠雄は夕膳ゆうぜんを整え、酒の燗(かん)をつける火をおこす。金屋橋の方から阿吉の唄が風を渡ってくる。阿吉は忠雄が家の前に立っているのを見つけると、「馬を追う鞭むちの影も忙しく」わが家に急ぐ。そして、夫に沸かしてもらった風呂に入りながら、今日一日のことを語り合うのである。
阿吉と暮らす忠雄に、誘いがなかったわけでもない。同じ会津藩の士族で、忠雄よりは下であった長谷山が訪ねてきて、中央での働き口を世話しようとした。
だが、忠雄は耳を貸さなかった。それでも、長谷山に酒を飲ませるだけ飲ませているうちに、古傷を語り合ってしんみりとなった。
阿吉は見るに見かねて「私は後から徒歩でナァ、越すヨウ」と唄で励ました。長谷山との別れに当たっても「散るも、留(とど)まるも、霞かすみも、雪も、ナァー、末は野河の泡じゃものー、強く吹きやるな松の風ー」と声を張り上げたのである。
俗世間との交渉を絶って人間の温ぬくもりだけを求めていく。どうせ行き先は同じだという達観は、自然主義文学のような、あけすけな告白とは無縁である。
宙外は、明治34年5月に、猪苗代湖西岸の戸ノ口村に移り住んだ。明治40年12月に鎌倉に転居するまで、生活の中心を会津においた。山深い地を好んだ宙外にとっても、熱塩温泉は別天地であった。
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