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   熱塩温泉(上) 後藤宙外
【11月10日掲載】

笠井 尚
(喜多方市)

後藤宙外
 
 後藤宙外(ごとう・ちゅうがい) 慶応2(1866)年秋田県高梨払田村に生まれ、昭和13(1938)年に猪苗代湖畔戸ノ口の別荘で急逝。小説家、評論家、編集者。坪内逍遥に師事し、田園生活論を主張した。石川啄木の原稿を没にしたことでも知られている。

 

小説「会津節」の舞台
「会津節」の舞台となった熱塩温泉。何軒かの旅館が大正の大火の後に移転した
 湯煙の向こうから、戊辰戦争の廃墟はいきょから立ち上がった者たちのどよめきが聞こえてくる。

 それが一瞬静まり返ったと思ったら、直じかに湧き出るような女声の馬方節が、どこまでも届けとばかり、朗々と響き渡った。

 明治36(1903)年4月に後藤宙外が執筆した「会津節」は、熱塩加納村の熱塩温泉を舞台にしている。

 山形屋の女将おかみ瓜生悦子さんの話によると、熱塩温泉は、大正8(1919)年の大火ですべての旅館が丸焼けとなった。山形屋をはじめとして、何軒かがその後移転したので、宙外が小説に書いたときの旅館の並びとは違っている。 
 

  往時の大浴場跡は、わずかに足湯として、観光客に利用されている程度だ。山形屋の場所は、現在のますやの辺りだったという。

 茅葺かやぶき総2階建ての旅館に囲まれて、示現寺所有のお湯の源泉があり、大浴場はそのすぐ近く。お湯がどんどん湧いてくるかけ流しであった。それぞれの旅館とは、渡り廊下で結ばれていた。

 周囲が暗くなり、灯がともる時間になってきて、「サァ阿吉嬶おきちかか様が歌い始めた」というので、大浴場に黒山の人だかりができた。それが小説の書き出しである。「蟇がまのように肥(ふと)った筋骨逞たくましい体を敷石の上に踏反し、蝦えびの如ごとく温気に赤らむ丸い肩を揺動かして、胸の辺に缶詰の殻を柄杓ひしゃくに代えて湯を注けながら、歌っているのが噂うわさの高い阿吉である」

 主人公の阿吉は、次々と美声を披露した。馬方節がそのなかでも十八番おはこで、集まってきた者たちもうっとりと聞き惚れる。

 阿吉は、熱塩温泉から遠くない、黒川の豪農の生まれ。爺じい様から四歳駒一頭をもらって、駄賃取りを始めた。

 自慢の喉のどを聞かせて歩こうと、馬追いになった。喧嘩けんかも強かったが、阿吉にも転機がやってきた。会津藩の名誉ある門閥に生まれた朽岩忠雄と出会ったからだ。

 忠雄は、若松城の戦いで、後顧に憂いがないようにと、妻と子を手にかけてしまった。生き永らえて、隣村の金屋村で手習いの師匠になったが、各地に学校ができるようになって失職。わずかな金で茶店を開き、そこで阿吉と知り合って、黒川に居を構えた。

 忠雄は夕膳ゆうぜんを整え、酒の燗(かん)をつける火をおこす。金屋橋の方から阿吉の唄が風を渡ってくる。阿吉は忠雄が家の前に立っているのを見つけると、「馬を追う鞭むちの影も忙しく」わが家に急ぐ。そして、夫に沸かしてもらった風呂に入りながら、今日一日のことを語り合うのである。

 阿吉と暮らす忠雄に、誘いがなかったわけでもない。同じ会津藩の士族で、忠雄よりは下であった長谷山が訪ねてきて、中央での働き口を世話しようとした。

 だが、忠雄は耳を貸さなかった。それでも、長谷山に酒を飲ませるだけ飲ませているうちに、古傷を語り合ってしんみりとなった。

 阿吉は見るに見かねて「私は後から徒歩でナァ、越すヨウ」と唄で励ました。長谷山との別れに当たっても「散るも、留(とど)まるも、霞かすみも、雪も、ナァー、末は野河の泡じゃものー、強く吹きやるな松の風ー」と声を張り上げたのである。

 俗世間との交渉を絶って人間の温ぬくもりだけを求めていく。どうせ行き先は同じだという達観は、自然主義文学のような、あけすけな告白とは無縁である。

 宙外は、明治34年5月に、猪苗代湖西岸の戸ノ口村に移り住んだ。明治40年12月に鎌倉に転居するまで、生活の中心を会津においた。山深い地を好んだ宙外にとっても、熱塩温泉は別天地であった。

 


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