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昭和43年発行の会津若松市史の会報に、林は「会津と私」という一文を寄せている。笹屋旅館の主人と一緒に、夜スキーで喜多方の料亭まで出掛けたとか、「笹屋の息子さんと夏山を越えて裏磐梯の桧原湖まで歩き、そこから気に入って一夏をすごしたこともある」という思い出話を綴(つづ)っている。
昭和11年1月に林は、プロレタリア作家廃業宣言を行い、8月には「文学者と愛国心」という一文を発表し、日本主義的傾向を強くしたといわれる。
熱塩温泉で林は、会津の歴史を学ぶことになった。そこで得たのは、会津の民衆への限りない共感であった。「牧場物語」の冒頭の書き出しが、それを物語っている。
「すでに一週間、私は雪の中に埋もれている。私がこの北国の小さな温泉村についた頃ころには、雪はまだ遠い山脈の頂上までしか来ていなかった。私は妨げられることなく村と町を歩きまわって、必要な調査をすすめることができた」
林が取材したのは、会津自由党のことである。「自由の理想を胸に宿して、郷党のために財を盡つくし命を削った有志は、会津六郡だけでも百をもって数へることができる。この東北の僻地へきちをして豊かな理想の土壌たらしめたものはなんであったろうか」という素朴な疑問を抱いたからだ。
林は、若松・喜多方地方に藤樹学(とうじゅがく)と呼ばれる陽明学の伝統があったこと、さらに、明治元(1868)年のヤーヤー一揆(いっき)や、湯川村勝常寺の仏像についても言及し、「この系列の中に、会津の性格を貫く一筋の赤い絲いとが存在していないだろうか」と書いている。
「牧場物語」によって林は、その「赤い絲」を示そうとしたのである。
牧場の相続をめぐって、戦地から帰ってきた、小穴三吉一等兵、平山繁彦上等兵、鈴木宇一伍長の3人が、悪徳高利貸とその用心棒に立ち向かうというストーリーである。
戦場には金持ちも貧乏人もいない。力を一つにしなくては戦えない。その精神を村づくりに用いれば、理想の社会に一歩でも近づけるというのが、3人の主張であった。
上官の田代威三郎少尉が兄から牧場を相続することになっており、それによって貧しい村を豊かにしようと夢みていた。
そこに横槍よこやりを入れたのが、高利貸の関口元八と、田代少尉の兄武一郎を北支で殺害した木元則吉だ。
武一郎に金を貸したということで、実際には返済されているにもかかわらず、乗っ取りを謀ったのだ。その目論見もくろみは失敗したが、小穴三吉は木元の拳銃で撃たれて死亡してしまった。
熱塩温泉で林は、日本の民衆の確かな核に触れたような思いがしたのだろう。早春の描写が明るいのも、そのせいではないだろうか。「春であった。雪は消えて、雪の下に芽ぐんだ蕗薹ふきのとうが一夜のうちに葉をひろげ花をつけていた。桜の花の中で脚あしの赤い山鳩やまばとが鳴いていた。まだ日の高いうちに最初の温泉村についた。雪解けの水にあふれた川の岸に柳が芽ぐみ、柳の間に細い橋がかかっていた」
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