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中山宿と山潟は、中山峠の郡山側と会津側のそれぞれの地名である。そこをトンネルで抜くのは難しい工事であった。山潟は現在の猪苗代町上戸である。
横光自身も父からその話は聞いていたようで、代表作である「旅愁」では、主人公の父親の回想談として、トンネル工事のことが取り上げられている。
「これでわしも、日本のトンネルの難工事というのは、随分仕上げてきているんだぞ。福島から会津に抜けるトンネルがあるだろう。あれは難工事で、わしも初めてぶつかったものだから、あの頃ころはろくろく眠れなかった」
岩越鉄道の工事は、郡山と若松間だけ開通して一旦いったん無期延期となり、まだ生まれて間もない横光も会津を離れることになった。千葉に、東京に、それから、父と別れて母の故郷伊賀に移り、中学時代は滋賀県の寺に預けられた。
横光にとっての東山温泉は、記憶の彼方かなたに消えてしまったもどかしさがあり、晩年の作である「秋立ちて」では、かなりの愛着があったことをうかがわせる。
「私の生まれた所は磐梯山の麓ふもとで、そこに暫しばらく一家といてから東京へ移ってきたという事を聞き、そのまま私はいまだそこを知らず、聞き質ただそうにも両親に別れた身には、もはやこれも何とかならぬもどかしさで、いつの間にか今日この頃の年になった」
しかし、その一方で横光は、幼児体験として、蜂はちに刺されて痛い思いをしたことと、兎うさぎの耳のピンク色に見とれたことを語っていたという。
河出書房版の「横光利一特集号」で、親友であった川端康成が言及している。横光自身がその事実を確かめようと、両親に話したこともあったというが、あまりにも昔のことで、一笑に付された。
明治41年に発刊された冊子「会津」では、新瀧は会津松平家ゆかりの格式の高い旅館として紹介されているだけでなく、伊藤博文が逗留とうりゅうしたとも書かれている。
いかに格式があっても、まだまだ明治時代であり、木造の旅館に、幾筋もの湯煙が立ち上がった写真が掲載されている。新瀧には、その当時兎を飼っていたという記録が残されている。幼児体験にもそれなりの信憑性しんぴょうせいはあるようだ。
また、「旅愁」のなかで主人公は、ヨーロッパから帰国するとすぐに、「東北地方が一番見たいんですよ」と語る。母の実家が東北地方に設定されている。そこを訪れることは、自らの根っこを確認することであった。そして、疲れを癒やすために出かけた温泉地は、どことなく東山温泉を彷彿ほうふつとさせる。
「古風なことでは日本でも有名な湯治場であったが、避暑地のまったく去ってしまった一帯の淋さびしい山峡では、野分の後に早くも秋雨を降らせていた。見たところ、このあたりの風習や気質には珍しく西洋の影響を受けたものは殆ほとんどなかった」
横光にとっての幼児体験は決定的なものがあったという。横光が故郷を持てなかったのは、たまたま親の仕事先で生まれ、次々と渡り歩いたからなのである。
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