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 学問好きで多くの逸話


 伊能忠敬は1745(延享2)年1月11日、小関貞恒、ミネの次男として生まれた。小関家は九十九里の名主で小関村(現千葉県九十九里町小関)にある。忠敬は三人きょうだいの末っ子で兄と姉がいた。

 忠敬の幼名は三治郎といい、母ミネは長子で、15キロほど北に離れた小堤(現・横芝光町小堤)の神保家から婿をもらった。

 六歳の時、母が急死すると、婿養子だった父は三人の子がありながら兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に返された。母には弟がおり、弟が家督を継いだ。

 三治郎は祖父母の元に残り、父は手の掛からない兄と姉を連れて実家に戻った。読み書きを学ばせなければならない三治郎を小関家に託し、いずれ迎えに来ることを約束し帰った。

 小関家は江戸ともつながりが深く、幼い三治郎に基礎教育をしっかり学ばせた。

 学問好きな少年で親戚の平山家の人に漢学を、常陸の僧に数学を、土浦の医者から医学を学び、土木作業を監督させたならば人使いがうまかったとか、家に泊まった幕府役人から計算を習ったといった逸話が残されている。

 約束通り三治郎が十歳の時に父の元に引き取られ、十七歳まで父の元で過ごした。九十九里町小関から横芝光町小堤までの一帯は忠敬が神保三治郎として青春時代を過ごした土地だった。

 1762(宝暦12)年、十七歳の時に、香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、ミチと結婚した。

 佐原の酒造業、伊能三郎右衛門家では当主を亡くし、子持ちで二十一歳の未亡人のミチが婿を求めていた。十七歳と二十一歳、子持ちの縁談だった。

 平山家を仮親として、幕府学問所頭取(現在の東大総長)林大学頭の門人になり、林大学頭から『忠敬(ただたか)』という名前をもらい、平山忠敬として伊能家に婿入りした。

 伊能家の記録によると、当時千二百石の酒造家だったが、忠敬の働きにより、造酒高千四百石になったとの記録がある。

 醤油(しょうゆ)の醸造、貸金業を営み、江戸への水運の権利を持ち、運送業もやり、江戸に薪(まき)問屋を持っていた。分かり易(やす)くいえば、現在の総合商社のようなものだ。

 江戸時代の伊能家屋敷は今の佐原の旧宅よりはるかに広く、貸家もあった。米の仲買などで財産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くし、かなりの才覚の持ち主で、伊能家の再興の祖といわれている。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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国の史跡になっている運河のある佐原の伊能家屋敷

2011年1月26日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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