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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
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 子午線の長さ測る旅へ


 第一次伊能忠敬測量隊は1800(寛政12)年閏(うるう)4月19日、江戸黒江町の伊能宅の近くにある深川の富岡八幡宮を参拝し、奥州蝦夷(えぞ)地の測量に出発した。隊員は幕府天文方の門倉隼人、平山藤右衛門の孫平山宗平、忠敬の庶子伊能秀蔵の三名と下僕の吉助、長助だった。隊員はごく親しい若者ばかりで結成された。

 当時、江戸の人々にとって、蝦夷地は寒冷・未開の極地と思われ、千住の宿まで見送った大勢の人々は、無事に再会できるか、とても心配していた。

 奥州蝦夷地を選んだのは地球の大きさ、すなわち「子午線の長さ」を測るのには日本列島が北に向かっており、測量に適していると考えたためだ。

 一日目は大沢宿(現埼玉県越谷市)泊まり、二日目は古河城下泊まり、三日目は宇都宮城下泊まり、四日目は大田原城下泊まり、五日目は白河城下泊まり、六日目は本宮宿泊まり、七日目は瀬の上宿泊まり、八日目は大河原宿泊まり、九日目は仙台城下泊まり、十日目は古河宿(現宮城県古川市)と測量が続いた。

 江戸時代の参勤交代の記録によると、伊達藩は仙台城から六泊七日で江戸仙台藩邸まで、上杉藩は米沢城より板谷峠を越えて奥州街道を七泊八日で江戸藩邸まで、南部藩は盛岡城より奥州街道を十一泊十二日で江戸藩邸まで費やしている。一日平均40キロの強行軍だった。現代人には驚異の歩行距離と言わなければならない。

 白河城下で旅籠(はたご)屋、因幡屋茂兵衛宅に泊まった。茂兵衛宅は第一次測量、第二次測量と二度宿泊した。白河城下町割の史料によると、因幡屋は「無役、表間口六間六尺五分、同断酒蔵渡世岩淵兵右衛門」との記録が見つかった。

 白河城下で伊能測量隊は最初心当たりの宿があったが、大変手狭な家だったので、因幡屋茂兵衛宅に宿替えをした。ところがこの主人の茂兵衛は、伊能忠敬の実家のある下総佐原で丸屋伊右衛門という者の酒蔵を借りて酒造りをしていたことがあった。当時は丸屋清吉と名乗っていた近江(滋賀県)出身の人で、丙午(ひのえうま)の年(天明6年)に大阪での米相場で損金を出して、この白河へ来たと分かった。

 忠敬と宿の主である、茂兵衛はこの縁にさぞ驚いたことだろう。この夜は酒肴(さかな)でもてなされたこともあって、忠敬は因幡屋の女房へ二朱銀一枚を与えた。この再会の不思議さを、忠敬は日記に克明に書いている。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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富岡八幡宮伊能忠敬旅立ちの像

2011年2月9日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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