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 県内測量で16日間宿泊


 第二次測量は1801(享和元)年、旧暦6月19日に江戸を出立し、伊豆半島、房総半島、磐城、松島、三陸海岸、下北半島、津軽半島の三厩(みんまや)(現外ケ浜町)まで測量し、帰路は奥州街道を再調査しながら、12月7日に江戸へ戻った。測量日数は230日、天体観測は87回に及んだ。

 忠敬は32歳の時に、妻のミチと松島まで旅行し、浜街道は旅慣れた道であった。

 旧暦8月5日、忠敬隊5人は平潟村(現北茨城市)の鈴木忠三郎宅を出立し、藩境の勿来の関を越え、浜街道を測量し、米野村(現いわき市小名浜)の名主米助宅に三泊した。夜、天体観測をし、地図の下書きをしている。

 小名浜は幕府の直轄領(ちょっかつりょう)で代官は寺西重次郎が務めていた。忠敬は公事方手代の稲垣直左衛門の表敬訪問を受け、米野村から仙台藩の塩竃(しおがま)まで先触れ(お触れ)を出している。

 8日には三崎を廻(まわ)り、海岸線を北上し、中之作村(現いわき市)に到着し、小湊の入り江で水底の深さを、四丈(12メートル)、岸の方で二丈五尺(7.7メートル)と港の水深を測定した。海底を測量することは珍しい事である。

 8、9日と相馬街道駅場の四倉村(現いわき市)の鈴木甚左衛門宅に泊った。「鈴木家は親の代に特別の善行があり、帯刀一代、名字子孫まで、御扶持米(ふちまい)三人を拝領(はいりょう)している」と忠敬日記に記している。

 10日は下北迫村(現広野町)、11日は小浜村(現富岡町)で天体観測をしている。12日は請戸村(現浪江町)の名主・鈴木宅に泊まったと思われる。

 鈴木家は海運業として栄え、天保年間には酒造業に転じた。蝦夷(えぞ)地探検家で幕臣の近藤重蔵も泊まっている。重蔵は択捉(えとろふ)島に『大日本恵土呂府』の標識を立てたことでも知られている。

 13日は塚原村(現南相馬市)百姓の隠居宅に泊り、14、15日と烏崎村(同)の名主、利兵衛宅で午中太陽(月食)を天体観測した。16日は原釜村(相馬市)の長左衛門宅泊。この夜、相馬郡代の村津貞兵衛親子が訪れ、天体観測を見学した。

 第二次測量の帰路では、旧暦11月26日に福島城下の本陣・黒沢六郎兵衛宅で、小雪の中、晴れ間に天体を観測し、27日に小雪の奥州街道を南下し、本宮宿の塩谷三四郎宅に泊まり天体観測をした。

 28日に須賀川宿本陣・三沢源左衛門宅泊まり、29日に白河城下の顔なじみの因幡屋茂兵衛宅で天体観測をしている。福島県内の浜街道、奥州街道で16日間宿泊し、天体観測は6回行っている。

 忠敬は江戸に帰り直ちに地図の作成に取り掛かった。内妻のお栄と津宮村の名主・久保木清淵も地図制作を手伝った。清淵は伊能測量隊の『幕府御用』旗の発案者でもあり、主に細字の記入を手伝ったといわれている。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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伊能図磐城浜街道(国会図書館蔵)

2011年3月2日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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