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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 第3次で会津を測量 <<<
 
 国家事業の大命受ける


 幕府は伊能忠敬の第一次、第二次測量の正確さに驚き、その測量技術を高く評価した。そして、幕府は第三次測量より日本全土の測量を命じ、正式に国家事業となった。大命を受けた57歳の忠敬は第三次測量を始めた。

 1802(享和2)年旧暦6月11日、伊能測量隊は朝五つ(午前8時)に深川富岡八幡宮に参詣し、その足で浅草の幕府天文方の師高橋至時(よしとき)に出立の挨拶(あいさつ)に行った。天文方では宴席が設けられ、測量の成功と無事を祈願した。測量隊長の忠敬、幼年から忠敬に算数を学んでいた親戚の平山郡蔵と、忠敬の庶子で14歳の時から第一次測量のメンバーであった伊能秀蔵など七人の隊員である。

 第三次測量の概要は江戸より奥州街道を白河まで北上し、ここから道を会津街道(現国道294号)にとり、会津若松から米沢、山形、新庄、久保田(秋田)、土崎を経て能代、弘前、青森、三厩(みんまや)と測量した。

 8月5日に三厩を南下し日本海海岸を能代、男鹿半島、土崎、本庄、酒田、新潟、柏崎、直江津と測量した。ここから信州に入り高田から善光寺(長野)、上田と進み、追分から中山道に入り軽井沢、高崎、熊谷と通り、旧暦10月23日に江戸へ帰着した。測量日数は132日、天体観測は81日に及んだ。

 江戸の出立時、奉行所からは道中奉行、勘定奉行ら五人が連署した『お触』が各藩に出されている。行き先々の役所より村々の問屋、年寄、名主、組頭にお触が伝達された。

 お触の内容を要約すると、白河から会津若松の触書は『我等(われら)は会津街道の村々で幕府御用により測量を行う。明日6月22日白河を出立し、会津若松迄(まで)以下の宿泊の順序により罷(まか)り通るので、この間、先触の通り宿舎を用意する事。且(ただ)し、雨天の時には測量は出来ない。其所に滞在して天気次第日延べし出立する。差し障りのないように、泊触の儀は若松まで我等の宿泊を通知する』とある。

 また、江戸の伝馬役(諸街道の伝馬扱いの元締め)馬込平八より、宿駅に通達が出された。「伊能勘解由(忠敬の隠居名)様が北国筋海辺測量御用で江戸を御出立になる。勘定奉行様方御連印の御証文を差し遣わされるので伝達する。御印物なので、墨をつけたり、汚したりしないように大切に扱い、継ぎ送れ」の書状が出された。

 各宿駅では写しを作り、大切に保管し、添え書きをつけて次の宿駅に送ったのである。

 伝馬役、馬込平八の通達は江戸から秋田まで20日で届いている。江戸の郵便システムは優秀であった。また、この内容から伊能忠敬測量隊は幕府より手厚く保護されていたことが分かる。今後、会津街道や米沢街道の各駅、検断、名主、問屋などからの書状の写しが発見されることを期待している。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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日本全図制作を命じた松平定信公の居城白河藩の小峰城(東日本大震災前)

2011年5月18日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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