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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 第3次測量隊の宿 <<<
 
 白坂村で緯度の天体観測


 1802(享和2)年、第三次伊能測量隊長外六人に、幕府より出張旅費六十両が支給された。現在の貨幣価値では約300万円である。測量日数は132日で1日当たり1人約2300円の手当が出ている。忠敬は測量費用の約80パーセントを自費で賄った。江戸深川を出立し、8日後の旧暦6月18日(西暦7月17日)、奥州街道の佐久山宿(栃木県大田原市佐久山)に着いた。翌日は越堀宿(黒石市越堀)、本陣河内屋源蔵宅を止宿とした。この夜、天体観測を行っている。

 20日は朝六ツ半(午前5時30分)に越堀宿を出立し、県道大田原芦野線の芦野宿を通り、国道294号を北上し、栃木と福島の国境「境の明神」に差しかかった。ここは奥州街道で最も標高の高い地点である。忠敬は境の明神に大変興味を持ち、忠敬日記に神社の由来を詳しく書き止めている。急な坂道を越え、白坂村(白河市白坂)の脇本陣・岩井屋庄三郎宅に八ツ後(午後3時ごろ)に着いた。早速庄三郎宅の庭に象限儀(しょうげんぎ)を据え付けて日没を待ち緯度、経度の天体観測を行った。6月21日、白坂村を朝六ツ半(午前5時30分)に出立し、皮籠村(白河市皮籠)を経て白河宿の本陣、芳賀源左衛門宅へ四ツ(午後10時ごろ)に到着した。本陣の玄関前に提灯(ちょうちん)が灯(とも)され、紫色で色鮮やかな『御用・測量方』の伊能旗が掲げられていた。伊能旗は幕府測量方の威厳を知らしめるためのものであり、デザインは下総、津宮村の名主久保木清淵である。

 伊能忠敬は第三次測量からその功績が高く認められ、幕府天文方の役人として取り立てられ苗字(みょうじ)帯刀を許された。刀は鉄製なので方位盤の磁石の針を狂わせてしまうため、測量の時には竹光を差していた。また、第三次測量から忠敬は幕府役人となり馬に乗ることが許された。しかし、歩測するために馬には乗らなかったようである。懐中には測量を命ずる幕府の公式文書を携帯していた。

 前年に松平定信公が白河郊外に四民共楽の南湖公園を造成している。伊能隊は南湖公園への道は通らず、九番町を左折し白河城下に入った。定信公は忠敬に日本全図の制作を命じている。忠敬に南湖公園と定信公が史跡と定めた『白河の関』をぜひ見てほしかったとの思いがする。本陣の芳賀源左衛門宅の所在について調べてみた。1823(文政6)年、白河城下元町の町割りの中に「表間口拾六間九寸芳賀源左衛門、旅籠屋渡世彦四郎無役」の史料があった。

 渡世とは生業(なりわい)をいい、無役とはこの時期、源左衛門は名主や検断、問屋等の町役を拝命していない。幕末戊辰戦争で西軍の負傷者の病院にもなった本陣源左衛門屋敷は今は無く標柱が立っている。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)

「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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伊能図白河城下と会津街道入り口

2011年5月25日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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