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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
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 「幕府の御用」と止宿を通知


 1802(享和2)年旧暦6月21日(西暦7月19日)に伊能忠敬は白河宿より江戸へ会津街道測量の書状を送り、会津街道の村々には泊触が出された。

 「我等(われら)は測量を幕府の御用により行う。明日、白川を出立し会津若松まで宿泊をしながら罷(まか)り通る。先触の通り各宿では宿を用意すること。雨天の場合は測量が難しい。その時には天気次第で出立を先延ばしするので支障の無いように。若松まで我等の止宿を通知する。以上」としたため、戌6月21日伊能勘解由(忠敬の隠居名)で押印されている。

22日 白川初飯土用休 上小屋泊 23日 牧ノ内休 長沼泊
24日 勢至堂休 三代泊 25日 福良休 赤津泊
26日 原休 赤井泊   27日 若松泊
右宿々村々 問屋 名主 年寄中

 休は昼食の休息所、泊は止宿の意味である。

 6月22日六ツ(午前6時)白河を出立し会津街道の大谷村(白河市広谷地)を通り、飯土用村(白河市飯土用)で昼食を取った。筆者は会津街道を測量した測量隊の経路をたどってみた。白河市の女石より国道294号に入り白河市大信飯土用の飯土用郵便局長高橋昭市氏を訪ねた。

 高橋氏は「私の先祖は、代々、この飯土用村で旅籠(はたご)を生業(なりわい)としておりました。村には旅籠は二軒あり、私の家は中屋といい今の郵便局が旅籠屋跡です。隣は旅籠屋みなと屋がありました。名主は斑目家で問屋も兼ねていましたが、今は一族の人は飯土用にはおりません」と話された。測量隊はこの村のどちらかの旅籠で昼食を取ったと思われる。

 高橋氏は村外れの毘沙門(びしゃもん)堂に案内した。毘沙門堂は茅葺(かやぶき)屋根で不動様が奉(まつ)られており、村人の信仰を集め、真新しい赤い前掛け姿で静かに鎮座していた。お堂の入り口には馬頭観音像、二十三夜碑など多くの板碑や灯籠が立ち並び、会津街道の古い歴史を感じさせる。別れ道に右、滑川村、左、羽太村の道標があり、会津街道を進むと坂道に差し掛かり、飯土用坂の右側に一里塚があった。塚には杉の木と紅葉の木が植えられていた。

 測量隊は滑川村(白河市滑川)を通り上小屋村(白河市大信上小屋)の本陣・内山茂市宅に八ツ(午後2時)に到着し止宿とした。江戸時代、会津街道は別名白河街道とも称され、会津藩、越後の村上藩の参勤交代や、幕府より派遣された諸国巡見役などで賑(にぎ)わい重要な街道であった。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)

「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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昔の風情が偲ばれる白河市飯土用の石碑群

2011年6月1日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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