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 貴重な歴史語る「一里塚」


 忠敬たちは旧暦6月23日(西暦7月22日)上小屋村の本陣内山茂市宅を出発した。牧野内村(天栄村牧之内)で昼食のため休息し、八ツ(午後2時)頃、長沼村(須賀川市長沼)に着き、本陣・矢部唯左衛門宅を止宿とした。長沼村金町には松平播磨守の陣屋があり測量隊を迎えた。この夜は晴天で夕食後、天体観測をし、データを整理するため夜遅くまで仕事を続けた。測量隊員の晩酌は禁止されていた。翌朝は3時に起きて測量機器を馬に乗せ、出発の準備をした。

 24日六ツ(午前4時半)唯左衛門宅を出立し、下江花村、上江花村を経て二里二丁(約8.2キロ)先の勢至堂宿に至り、昼食を取った。勢至堂村の本陣柏木宅は改築中のため旅籠(はたご)で接待をした。伊能日記に「ここは会津領界で安積郡なり」と記している。

 勢至堂で代々旅籠を生業(なりわい)としていた石井周次、善人氏兄弟は「須賀川市勢至堂の宿場は最盛期で人家が四十軒ほどあり、本陣は代々柏木家が務めていました。今は本陣跡は畑になっており、一族の方々は住んでおりません。伊能忠敬が勢至堂村で昼食を取ったことは初めて知りました。この宿場の新しい歴史になります」と話され、一里塚へ案内した。

 会津街道勢至堂の一里塚は街道の左側に一基現存し貴重な道標である。明治6(1873)年、太政官布告で新しい道路体系として「元標及び里程標柱書式」を定めた。明治九年の太政官布告で一里塚を「有害無益の塚丘」とされ破棄されてしまった。一里塚を無用の長物として壊すことを命じたのである。明治の道路元標は石材その他の耐久性材料で25センチ四方、高さ60センチ(先端は丸型)に「○○市町村元標」と記載した。

 また、明治9年、内務卿大久保利通が地理寮に命じ奥州街道百三十カ所の海抜の高低を測量した几(き)号水準点がある。

 几号水準点は幕府天文方の流れをくむ明治政府の役人が二年の歳月をかけ不朽物(ふこうぶつ)である鳥居、供養塔や自然石に「不」の刻印を付けた。几号水準点はドイツ人で日本最初の天気予報を出した、お抱え技師クニッピングの指導のもとに距離と高低を測量した。几号水準点は精度の高い歴史的な史跡である。

 石井氏は「この会津街道は豊臣秀吉が天正時代に会津仕置で往復しており、勢至堂峠の古道には石畳が残り、太閤道分岐点があります。秀吉は荷駄の紐(ひも)を結び直し、とうとうと流れる『殿様清水』で咽喉を潤したのでしょう。勢至堂峠の頂上には二軒の茶屋があり、勢至堂側は石井家が茶屋を出し、会津領三代上平は磯貝家の茶屋でした」と峠の古道を案内した。頂上の茶屋跡は平地で緑草が茂り、さやさやと木立を風が吹き抜け、往時を偲(しの)ばせる石柱が立っていた。

 明治の標石である道路元標や几号水準点は文化財の指定を受けていない。
 このたびの東日本大震災で標石は倒壊し、瓦礫(がれき)として片付けられてしまう心配がある。早急な調査保存が必要である。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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会津街道勢至堂峠の貴重な一里塚

2011年6月15日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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