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鶴ケ城の美しさに感嘆
享和2(1802)年旧暦6月27日(西暦7月26日)朝は曇天で冷え込み、忠敬は重ね着をし、六ツ後(午前4時)原宿を出立した。街道を行くとだんだんと晴れて、午前には気温が上昇し暑くなってきた。
街道は平道で、西田面村、上馬渡村、下馬渡村の人家は山際にある。上馬渡村では磐梯山の方位と標高を測定した。半円方位盤を用い、方位は子(ね)―北30度―、23分45秒と記録している。
忠敬は会津街道で勢至堂峠と、福原村、赤津村、上馬渡村、下馬渡村の五カ所で磐梯山の測量をした。
江戸時代には磐梯山の標高は分かっていない。この時代、内陸での海抜は測定しなかった。
磐梯山噴火記念館副館長、佐藤公氏は「江戸時代の磐梯山の標高を示す史料はありません。明治21(1888)年、磐梯山は大噴火をしました。明治37(1904)年に参謀本部陸地測量部(現国土地理院)の測量では1818.61メートルの標高です」と話された。
平成22(2010)年、国土地理院はGPSで、2.32メートル低く1816.29メートルと改めた。猪苗代山岳会の支援で三角点の標柱が設置された。このたびの東日本大震災で磐梯山の標高は変化していると思われる。
原宿より一里十八丁で赤井宿、金堀村と滝沢村となる。赤井宿より若松城下大町の「礼の辻」までは二里四十間、金堀村と滝沢村の間に滝沢峠がある。
滝沢峠入り口の本陣は、歴代の藩主が領内の巡視や参勤交代の折に、休憩や江戸へ向かう旅装をととのえる場として用いた。茅葺(かやぶ)き屋根に覆われた書院造りの建物は、国の重要文化財に指定されている。
測量隊は赤井宿より二里先の若松城下に入った。忠敬は五重の天守閣を仰ぎ、壮大な城の美しさに感嘆した。松平肥後守容衆公の居城は二十三万石の大藩である。
鶴ケ城入り口に二人の藩士が先払いとして、測量隊を丁重に出迎えた。止宿は七日町の本陣、菊地傳十郎宅で八ツ(午後3時)頃に着いた。傳十郎は検断(警察権)、問屋(郵便、運送、伝馬)でもある。
到着後、町方役人の上級武士池田与五郎が挨拶(あいさつ)に来た。川田乙四郎も唐沢番所で忠敬を出迎え、三代宿、福良宿、赤津宿、原宿まで見舞いに来ている。
会津若松市教育委員会文化課の近藤真佐夫氏は「伊能測量隊は二日間本陣菊地傳十郎宅に滞在しました。傳十郎宅は、現在の会津若松市七日町九の七と九の八の付近です。この時期、近くに藩校日新館が開設されました。日新館は、家老田中玄宰の進言により計画され、享和3(1803)年、鶴ケ城の西隣に校舎が完成しました」と話された。
日新館は東西約120間、南北およそ60間で八千坪の敷地に水練場や天文台、医学寮までも備えた学問所である。忠敬は天文学を学ぶ上級藩士の子弟の教育に期待したであろう。忠敬が関与した江戸幕府昌平坂学問所にも多くの会津藩士が学んでいる。
傳十郎宅の夕食では阿賀野川のヤマメ、岩魚(いわな)やニシン寿司、鯖(さば)の昆布巻きなどの接待を受けた。この夜、傳十郎宅で天体観測をしている。
(伊能忠敬研究会東北支部長)
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松宮 輝明
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23万石の大藩、会津藩の鶴ケ城の天守閣 |
2011年6月29日付
福島民友新聞に掲載
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