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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 米沢街道 <<<
 
 道中の村に止宿の手配


 伊能忠敬は、享和2(1802)年旧暦6月28日(西暦7月27日)、若松城下七日町の本陣、菊地傳十郎宅に、測量データを整理し、道中測量器機を調整するために二日間滞在した。そして忠敬は米沢街道の各村々の名主、問屋、年寄中に泊触(通達)を出した。

 「旧暦6月29日に若松城下を出立し、森合村で休み、塩川村に泊まる。7月朔日(1日)は熊倉村で休み、大塩村に泊まる。2日は檜原村に泊り、3日は米沢領網木村に泊る。4日は関村で休み、米沢城下に泊るので万端準備するように」とのお触れ書きである。

 伊能日記には「旧暦6月29日朝は小雨であったが暫(しばら)くして止(や)んだ。五ツ前(午前7時)若松城下七日町の傳十郎宅を出立し、上高野村まで測量をした。

 この間広地で平たんである。会津藩領五万五千石の穀倉地帯で、村の入り口から磐梯山が見える。頂上は雲に隠れていたが、方位は丑(北東)30度29分である。厩岳馬頭峰は良く見える。方位は丑(北東)30度18分40秒である。厩岳の高さは丑12分30秒である。中森台村を過ぎ、河沼郡の竹内村で休息をした。

 この村は猪苗代領の二万八千石で、北方の耶麻郡は八万石の石高である。笠目村、及川村、濱崎村を過ぎ、沼上村に入った。沼上村の堂島川は板橋で長さが三十二間(58メートル)の大河である。堂島川の源は猪苗代湖水で、大塩村より流れ来る大塩川と合流し、揚川となり、越後平野の新潟へ流れている。会津若松より塩川宿まで三里十七間の道程であった。九ツ時(正午)頃、塩川村の名主で検断の栗村平八宅の止宿に着いた。平八は芦名氏の係累で名門である。郡役所の物書服部善内が麻裃(あさかみしも)の姿で見舞いに来た。

 「米沢街道会津領までの村々の休憩所と止宿の手配は全て完了しました」と報告した。塩川宿の栗原平八宅は現在の喜多方市塩川町字中町1932の2付近(現東邦銀行隣)である。

 この夜は大風雨となり天体観測はできなかった。忠敬は「会津領の四つの高山を一に飯豊山(現在標高2105メートル)、二に東山(吾妻山、2035メートル)、三に磐梯山、四に高曽根山(1443メートル)なり」と記している。

 江戸時代の絵師谷文晁の江戸百名山図『奥州会津磐梯山』がある。高くそびえる噴火前の標高を知りたいものと、国土地理院、測地部長(伊能忠敬研究会員)の堀野正勝先生に標高の推測を依頼した。なかなか難しい。

 塩川村はこの夜は大風雨となり、7月1日も大雨で塩川村に忠敬は二日間逗留(とうりゅう)した。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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米沢街道の伊能図

2011年7月6日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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