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家人に一筆したためる
大塩村の石高は千石、家数は百五十軒余である。穴沢家屋敷の東側の山中に温泉神社がある。大塩村の南西の方、五町(約550メートル)の左右に亀甲石があり亀甲坂と呼ばれる。米沢城下に通じる会合街道であり、登り口の供養塔には「右ハいなわしろ道 左ハよねざわ道 文化8(1811)年」と刻まれている。大塩村の一里塚は大塩宿の北の坂を上ったところにある。
旧暦7月3日(西暦7月31日)、測量隊は大塩村の本陣穴沢源吉宅を出立した。郡役所の物書き服部善内が毎日挨拶(あいさつ)に来ている。伊能日記には「朝霧深かし、五ツ前(午前7時)大塩宿の穴沢源吉宅を出立し、一里四丁二十間で、檜原宿境に至る。其(そ)れより一里四丁四十間、合計二里九丁で会津領の檜原宿に着いた」と記している。大塩川について「上流を小塩川と言う。檜原村の境内より流れ、北より南に注ぎ西に折れ村中を経て南西の方に流れること凡(おおよそ)二里二十町ばかり、上川前村の南を通り樟村の界(かい)に入る。怪石が競い秀で水勢端急なり」と記している。
伊能測量隊は難所の大塩峠(別名萱(かや)峠)、蘭(あららぎ)峠を越えて測量を続けた。米沢街道の大塩村より大塩峠の間には会津藩によって植えられた赤松並木が十数本現存し残ってる。大塩峠の付近の山々は塩をつくるために大量の樹木が伐採され、一面萱が密集する山肌となってしまい萱峠と呼ばれた。
萱峠には茶屋があり、そこで伊能家のある佐原より山形の湯殿山詣での一行に出会い、佐原の顔見知りの者に書簡を届けるよう頼んだ。「元気で測量を続けている。家業に怠りのないよう」と一筆したためた。この茶屋は昭和10年頃まで営業していたと言われている。蘭峠は分水嶺で大塩川と檜原川に分かれる。萱峠を下ると大塩川に架かる境橋があり、この橋は大塩村と檜原村の境界をなし、北に進むと中ノ七里の手前に一里塚がある。この一里塚は昭和53年頃、林道工事のため二基とも破壊されてしまった。
新編会津風土記に「蘭峠には、深さ一間、径八尺余の石窟(せっくつ)があり、山(さん)賊(ぞく)がここに隠れ、往来の者を脅した所なりとぞ。この辺りは谷深く極めて幽玄なり。されば山に沿い岩をつたえて斜めに板橋を渡し、経路を通す。故に岩弗(会津の方言で「へつり」の意味)と名が付く、この辺にて時々鷄声(けいせい)を聞くとあり、ここより西の方、数町に一里塚あり」とある。先発の測量隊は檜原宿の止宿、問屋、嘉兵衛宅に四つ半後(午前11時半)に、後発隊は九ツ後(正午)に着いた。
(伊能忠敬研究会東北支部長)
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松宮 輝明
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忠敬が書簡を託した大塩峠(萱峠)の茶屋跡 |
2011年7月20日付
福島民友新聞に掲載
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