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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 17年にわたる全国測量 <<<
 
 一歩一歩が大きな成果に


 測量隊は、旧暦8月8日(西暦9月4日)、弘前城下の三国吉郎右衛門宅に二泊し、新城村、油川村、蟹田村、母衣月村と測量し、三厩湊(みんまやみなと)の工藤忠兵衛宅に五日間滞在した。忠兵衛宅には第一次測量の旧暦5月に九日間、蝦夷地からの帰路旧暦9月に二日間、そして第二次測量の旧暦11月、吹雪の中で二日間滞在している。

 三厩宿は奥州街道(松前街道)の終点でもある。三厩宿左山頂には龍馬山義経寺がある。頂上からは三厩の湊が見え、眼下に津軽海峡が広がり蝦夷(えぞ)地の松前が一望できる。源義経が兄頼朝の軍勢に攻められ平泉で滅ぼされたが、逃れて蝦夷地に渡ったとの伝説の地でもある。忠敬は義経寺を参拝し悲運の武将に思いを馳(は)せたであろう。

 この間、小泊までの算用師越えの道、三厩の先の宇鉄への道、また、舟を出して竜飛崎などの地形を調べた。津軽藩御用人の山鹿八郎左衛門は「宿々の取り扱い、人足の差出し、遅滞無く行うよう通行筋の村々に知らせること」と通達を出したが、初めは徹底しなかった。しかしその後は行き届き、現地で出会った藩士の松野茂右衛門とは江戸で懇意な仲になっている。

 旧暦8月20日(9月16日)、測量隊は三厩を出立し、いよいよ急峻(きゅうしゅん)な算用師峠越えとなる。峠の頂上は三厩と小泊の境で、小泊村役人の出迎えがあり、小泊の人夫たちが連なり荷物を継ぎ継ぎと運ぶ大難所である。険しい谷川道をかなり進むと谷間が広くなり海岸上の草原に出た。小屋掛けができていて弁当、茶、酒などの用意がされていた。この日は小泊村河村屋儀兵衛宅を止宿とした。

 旧暦8月21日(9月17日)は十三湖を測り、十三町の能登屋金右衛門宅を止宿とした。測量隊は日本海海岸を南下し、秋田、新潟と測量を続け、直江津より善光寺に立ち寄り、旧暦10月23日(11月18日)江戸に戻った。そして享和3(1803)年旧暦2月25日(4月16日)、第四次測量に出立する。

 忠敬は第二の人生を日本全国の測量に捧(ささ)げ『日本全図』を完成させるため尽力し、大きな夢を実現させた。第一次測量の1800(寛政12)年に始まり、第十次の1816(文化13)年までほとんど休み無く全国の測量をした。延べ測量日数3754日、測量距離43708キロメートル、天体観測1404回、方位測定回数15万回という大事業となった。細心の注意で測定点を多く設け、根気と努力の結果が正確な地図の完成につながったのだ。

 1818(文政元)年旧暦4月13日(5月17日)、忠敬は江戸・八丁堀亀島町の自宅で、七十三歳で亡くなった。忠敬は上野源空寺に、師である高橋至時(よしとき)の墓と並んで埋葬された。これは忠敬の遺言によるものだった。

 忠敬没後三年、忠敬の孫の忠晦(ただのり)や弟子たちにより『大日本沿海輿地全図(伊能図)』が完成した。そして忠敬は「日本地図の父」と称されている。

 全国測量を続けた十七年間は、夜遅くまで記録を整理し、翌日の出発の準備をする毎日であった。そして、克明な五十一冊の日記と多くの書簡を私たちに残した。

 厳しい自然と闘いながら徒歩で全国を測量し、その偉業の陰には大変な苦労があったものと思われる。その情熱と精神力には感服する。伊能忠敬は一歩一歩の積み重ねが大きな成果になることを教えてくれた。現在を生きる私たちのために、今も勇気と希望を与えてくれている。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)

 =おわり


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

>>> 25… 完


東北地方を描いた伊能図

2011年8月31日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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