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【風土】  【10/5】
 
浦上宗保の顕彰碑と亀ケ城(猪苗代町)。上島良蔵の碑は、亀ケ城稲荷神社境内にある
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 明治元年の戊辰戦争によって、藩祖保科正之ほしなまさゆき以来225年間続いた会津藩は取り潰つぶされた。戦場となった会津の人たちは、家を焼かれ、多くの家族が戦死して、失意の中にあった。

 旧藩士たちが私塾開く

 こうした苦難の中から「将来を担う子弟の教育を、最優先で取り組もう」と、旧藩士たちによるさまざまな取り組みが行われた。

 戊辰戦争後の混乱の中にあって、会津の秀才といわれた山川健次郎(当時15歳、後に東京、京都、九州帝大の総長などを歴任)と小川亮りょう(当時15歳、陸軍士官学校を出て後に工兵大佐)の2人は、会津藩士秋月悌次郎の計らいによって落城後に謹慎していた猪苗代から脱出、長州藩士のもとで勉学したことは知られている。このほか、例を挙げれば枚挙に暇いとまがない。

 野口英世のふるさと猪苗代においても、例外ではなかった。旧藩政時代には、保科正之の墳墓を守る猪苗代の侍の誇りを糧に、会津藩校日新館猪苗代校を中心に各所に郷校ごうこうや寺子屋、私塾などでの教育が行われていた。しかし、戊辰戦争によってこれらは事実上閉ざされていたので、終戦を迎えると、直ちに旧藩士たちによって私塾などが開かれ、子弟教育が始められた。

 特筆される2人の学者

 明治3年になると土津はにつ神社の麓ふもと、土町はにまちにある宮司宅を開放して、見祢山みねやま幼学所が開かれた。100人余りの生徒が集まり、その中に、将来の野口博士を育てた小林栄もいた。教師の陣容が整わず、教育内容は読書、習字などが中心で、四書ししょ、小学しょうがく、五経ごきょう、近思録きんしろく、十八史略じゅうはっしりゃくなどを教科書としていたが、集まった生徒たちは魚が水を得たように、勉学できる喜びを享受した。

 当時、猪苗代には特筆される2人の学者がいた。1人は江戸後期の南画家浦上玉堂うらかみぎょくどうの孫で、猪苗代の士であった浦上宗保むねやすである。戊辰戦争後、猪苗代に住み塾を開いて「静修塾せいしゅうじゅく」と名付け、門人が数100人に及んだという。もう1人は、江戸の幕府学問所昌平校しょうへいこうに学び、藩校日新館の教授、後に猪苗代校の教授となり、戊辰戦争後は猪苗代に住み、塾を開き多くの門人を育てた上島良蔵かみしまりょうぞうである。

 猪苗代の主だった人たちは、この両人から教授を受け、大きな影響を受けた。当然、小林栄は、この2人に師事している。

 明治新政府は明治5年に学制を発布、それに伴って、各所に小学校ができたが、同時に教員を養成する師範学校が創設される。上島は猪苗代での人材育成を念頭に、幼学所の秀才であった栄を師範学校へ推挙した。

 明治9年に師範学校へ入学した栄は、11年10月に首席で卒業した。校長から県都・福島町での職を勧められたが、「自らの立身出世を望むのではなく、後進の教養向上、子孫たちの幸福こそ真の教育者である」との固い決意から、猪苗代で教鞭きょうべんを執る決心をした。

 栄は猪苗代での教員として一生をささげ、多くの少年を世に送り出し、その中で、清作少年を見いだし育て上げた。医聖を生み出す土壌は、何世代にもわたり培われていたといえる。

 栄に育てられた英世は、明治27年、17歳の時、栄に宛あてた手紙に次のように書いている。

 「会津からは何百年にわたって学者や優れた才能を持った人、豪傑な人など天下に名をとどろかせた人が多く出ました。戦争に負けてからは、そのような人たちは去ってしまい、会津が再び会津としての名誉を回復することを私たち青年に託されています。私はその意を受けてがんばります」

 英世は、少年の時にすでに師の想おもいを受け継いでいたのである。明治という時代と郷土を思う師弟の心が、一体となった。
 


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