野口英世TOP
【佐藤進】 細菌学研究の門戸開く  〈11/23〉
 
順天堂医院の人たちと。前列左から4人目が佐藤進、前列右から3人目が清作
【13】
 
 医術開業試験に合格し、医師となった野口清作は、高山歯科医学院の講師になったが、予かねてより医学研究の道に進みたいと考えていたので、医学の臨床研究ができる順天堂医院に入所できないか血脇守之助に相談をした。守之助はさっそく医事雑誌社などで懇意となっていた、順天堂医院の医員である菅野徹三に清作の入所について依頼した。程なくした明治30年11月に助手として採用されることになった。

 順天堂医院には、そうそうたる医員がそろっていて、駆け出しの清作はその一員とはなれなかった。清作は順天堂医院が発行する『順天堂医事研究会雑誌』の編集部員という立場で仕事をすることになり、編集主任の菅野のもとで働くこととなった。

 同医院の前身は、院長佐藤進の祖父である佐藤泰然たいぜんが創設した「佐倉順天堂」にさかのぼる。泰然は武蔵野国むさしののくに川崎在の稲毛(現川崎市)に武士の子として生まれたが、蘭方医学を長崎で学び、江戸で「和田塾」を開いた。評判は高く塾生が多く集まり、その名声を聞いた佐倉藩主堀田正睦ほったまさよしは、泰然を呼び寄せ、佐倉に「順天堂」を開設させた。

 嘉永6(1853)年にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、その後日米通商条約の締結に至るが、その時の幕府老中首座で外国事務取扱(今の総理大臣と外務大臣を兼務した職)であった正睦は、開国を主張し条約推進をした人物であった。会津藩主松平容保は、御三家に次ぐ御家門の地位にあり、同じく譜代大名として、佐倉藩との交わりを深くしていた。

 泰然の実子である順じゅんは、将軍家に仕える漢方医松本家に養子となり、幕府医学所頭取になっていたが、順は、戊辰戦争では会津まで出向き傷病兵の治療に当たっている。また、同じく泰然の実子薫はイギリスに留学していたが、戊辰戦争が起こると帰国、榎本武揚えのもとたけあき(妻は薫の義妹)や会津藩兵とともに函館戦争を戦った。
 佐倉の「順天堂」には、藩内はもとより、会津藩を含めて日本各地から多くの人たちが集まっていた。

 会津藩兵の治療に当たる

 その中の1人に、下総国しもうさのくに小見川(現千葉県香取市)出身の山口竜太郎(後の佐藤尚中たかなか)がいた。竜太郎はその才能を見込まれ、泰然の養子となった。尚中は大学東校(現東京大学医学部)で大学博士に任じられ、教きょう鞭べんを執った。大学東校の教官27人中、20人が順天堂出身者で占められていた。尚中は明治6年、東京に私立病院「順天堂」を創設した。常陸国ひたちのくに久慈郡太田村(現茨城県常陸太田市)の造り酒屋高和家に生まれた東之助(後の佐藤進)は、佐倉順天堂に学び、見込まれて尚中の養子となった。養父尚中とともに鳥羽伏見の戦いで負傷した会津藩兵の治療に当たった。明治になりドイツに留学、東京の順天堂を引き継いだ。

 研究所への入所を推薦

 細菌学を目指した清作は進に相談し、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所への入所を推薦してもらうことになった。英世の細菌学研究への門戸を開いてくれたのが進ということができる。
 進の妻志津は私立女子美術専門学校長として女子教育に当たるが、志津が亡くなった後は、自ら校長となった。進の晩年は自然を愛し、古今の書籍に親しんだ生活を送り、大正10年7月25日、東京・本郷駒込において亡くなる。77歳であった。
◇ひとこと◇

  順天堂大客員教授(医学部医史学)の酒井シヅさん(71)

 
佐藤進は、その時代の日本の医学界のリーダー。日本で初めてベルリン大を卒業した人で、温厚で人望があった。当時は一代限りで終わる病院もあったが、順天堂を継続し大きくした。リーダーとしてふさわしい人格の持ち主だった。
 
 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29
ネットワーク上の著作権(日本新聞協会)
国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN