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【北里柴三郎(2)】 実学精神の初志を貫く   〈11/30〉
 


英世の歓迎会の席上での英世と北里柴三郎=大正4年9月22日、日本橋倶楽部
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 北里柴三郎は、野口英世が入所する時に「5年間、一生懸命研究に励めば洋行させる資格ができる」と話しておいたが、英世にとっては、その5年間はとても待てる時間ではなかった。まして、帝国大学出身の優秀な先輩がたくさんおり、いつその機会が訪れるか推測がつかなかった。渡米を希望していた英世は予かねて、柴三郎から「自費で渡米するのであればいつでも賛成する」との内諾を得ていた。

 英世がシモン・フレキスナーにアメリカへの留学を希望したところ、「北里柴三郎博士が渡米に賛成し推薦をしてくれるなら、帰米後、転学予定のペンシルベニア大学で何らかの身分が与えられるようにしましょう」という確約を得た。

 検疫医官補の職を斡旋

 ところが、英世には肝心の渡航費用がない。柴三郎にも相談したが、柴三郎はそのような大金を英世にやるほどの余裕もないし、いかにしたものかと思案した。そのころちょうど、日本で海港検疫が始まり、横浜、神戸、長崎、門司に検疫所が設立されることになった。柴三郎は月報が40円で伝染病研究所より25円も増額となる横浜海港検疫所の検疫医官補の職を英世に斡旋あっせんした。

 柴三郎はさらに、清国牛荘にゅうちゃん(現中国遼寧省)において流行している「ペスト」対策のため各国で組織された国際予防委員会の医師団の1人に英世を加えた。給与は破格なもので、当時のお金で1カ月200両、米ドルで約130ドル、日本円で260円の大金であった。英世は清国から帰国するころには、渡航費用を調達できるものと考え渡清した。ところが、渡航費用はできずじまいになった。

 渡航に至るまでにはさまざまなことがあったが、いよいよ明治33年単独で渡米、12月29日にフィラデルフィアのフレキスナーのもとを訪れた。翌年1月2日、英世が柴三郎に出した手紙が残されている。

 「着後、添書を携え教授フレキスナー氏を訪ねましたところ、非常に歓迎してくれ、万事好都合に運んでおります」と報告している。

 大正3年、伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたことを契機に、柴三郎は所長を辞任、柴三郎の考えに同調する所員たちと私立北里研究所(大正7年には社団法人に認可)を設立して、初志である実学の精神を貫いた。

 大正四年9月5日、英世が帰国すると、柴三郎は7日に自ら主催する歓迎会を開いた。数多く開かれる英世の歓迎会の最初のものであった。英世は開設されたばかりの北里研究所を訪れた。ちょうど所員たちが6畳ぐらいの古畳の座敷で弁当を広げているところであった。その時に英世は「僕も君たちの仲間だよ」と声を掛け、所員一同感激したという。

 柴三郎は大正6年、慶応義塾医学科を創設し初代科長に就任した。大正4年、英世を歓迎する紀州徳川家15代当主頼倫よりみち主催の晩餐ばんさん会の席上、英世は日本での私立医科大学創設の必要性を訴えたことも、慶応義塾に医学科が創設されるきっかけとなったといわれている。

日本の予防医学の礎築く

 柴三郎は明治34年に創設されたノーベル賞候補になり、日本だけではなく、世界的に評価された医学者ということができる。度量の大きい柴三郎に師事したことが、英世が世界で活躍する医学者となるきっかけとなったといえる。明治・大正時代という近代日本の黎れい明めい期に予防医学の礎を築いた柴三郎は、英世より3年遅れた昭和6年6月13日、脳溢血いっけつにより78歳の生涯を閉じた。
◇ひとこと◇

北里研究所事業本部総務課長で医学博士の森孝之さん(52) 

 北里は野口の歓迎会で「野口君が今日あるのは、日本のように盟友といえども足を引き合い、学者を迫害する環境ではなく、自由なアメリカで研究を続けた結果だと思う」と述べた。国立伝染病研究所を捨てた時期で北里の苦々しい心境が読み取れる。
  
 


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