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【サイモン・フレキスナー(2)】 英世の最も良き理解者 〈12/7〉
 

フレキスナー(右)と英世
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 サイモン(シモン)・フレキスナーは動物の毒液(蛇毒)に関する研究を与えた野口英世に、医学界の権威者であるサイラス・ワイヤ・ミッチェルの指導を受けるよう申し付けた。フレキスナーはちょうどサンフランシスコに出張を予定していたので、ミッチェル邸には英世が単独で行くことになった。

 英世の蛇毒研究始まる

 ミッチェルは40年にもわたりペンシルベニア大学教授の地位にあり、退官後は大学の理事でフィラデルフィア市医師会の会長を務めている権威のある人であった。英世は初対面にもかかわらず、老練なミッチェルから信頼と好感を持たれたという。英世の蛇毒研究は、幸先よくスタートした。

 もともとミッチェルの蛇毒研究は、ミッチェルの父が始めたもので、世界中の毒蛇を集めて息子に残したものであって、ミッチェルにとってはライフワークといえる研究であった。英世は蛇毒や、毒物学にも、免疫学にも携わったことがなかったが、この仕事をやり遂げることで大学での地位が確保できるものと必死の思いであったことと、研究へのミッチェルの思い入れが合致したのであった。

 その成果が早くもやってきた。研究を始めて1年もたたない1901年11月、ワシントンで開かれたナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスで蛇毒研究の発表ができることになった。研究は絶賛されるとともに、論文が学術雑誌に掲載されるなどして英世の名前はフィラデルフィアだけでなく、全米にも広く知られるようになった。その後、スミソニアン財団やカーネギー財団からの研究費も出され、ウッズホールの臨海生物学研究所での研究にも携わることとなった。

 能力評価し助手に推薦

 英世の能力を評価したフレキスナーはペンシルベニア大学の助手に推薦、正式に採用されることになった。着任のためフィラデルフィアに戻った英世にフレキスナーは、英世をデンマーク国立血清研究所へ留学させる計画を話した。デンマーク国立血清研究所長のマッセンはフレキスナーの友人で英世の留学先には最適であると考えたようだ。

 英世は、その意図をすぐには理解できなかったが、フレキスナーは前々から計画されていたロックフェラー財団が設立する研究所の所長に就任するので、留学から帰米後は、英世を研究所に一緒に連れて行くことを言明した。渡米してからわずか2年で、このような処遇を受けることになった英世にとって、アメリカ留学の決断は全く正しかったと実感したに違いない。

 新しい研究所のスポンサーであるロックフェラー家は、フレキスナーと同じユダヤ系移民であり、この研究所で東洋人の英世が活躍できる基盤を備えていたと気付くまでには時間を費やすことはなかった。

 英世のデンマーク行きとほぼ時を同じくして、フレキスナーはヨーロッパの各実験室の視察に出掛けることになっていた。フレキスナーは新しくできる研究所の視察であるとともに、新婚旅行を兼ねていた。新婦の実家はボルチモアのクエーカー教徒の有力者であった。父は幾つかの教育機関の理事を務めた内科医で、母は慈善事業や社会事業の指導者であり、姉はプリン・モー大学の学長であった。フレキスナーは英世に、有力者の娘を妻にするよう勧めたのもうなずけることである。

 フレキスナーは1935年に研究所を辞任するまでの31年間、所長を務め、研究所を世界一流の研究所に育て上げた。英世の最も良き理解者であり、庇護ひご者であるフレキスナーの存在なしには、英世の名声はなかったといえる。そのフレキスナーも1946年、83歳の生涯を終えた。
 


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